10世紀初頭、旧百済領の倭人系豪族、弓裔(ユミスエ)によって建国された『高麗』が乗っ取られた。 そして済州島の耽羅民族(たんらみんぞく)は、同化政策された。日本人、うかうか脳天気してると乗っ取られるぞ!1
10世紀初頭、旧百済領の倭人系豪族、弓裔(ユミスエ)によって建国された『高麗』が乗っ取られた。
そして済州島の耽羅民族(たんらみんぞく)は、同化政策された。
“実は、朝鮮半島はアメリカや中国ほどじゃないにせよ、かなりの多民族国家だ。
李氏朝鮮時代に、朝鮮族が、当事朝鮮半島を支配していた女真族を追い出し、
現在に至る“朝鮮人”の国家を築き上げた。
「済州島四・三事件」でググってもらえればわかると思うんだけど、
この朝鮮族は他民族差別がかなり酷くて、
これまた他民族である済州島の耽羅(たんら)民族も、
朝鮮戦争時代のレッドパージを口実にさらに大虐殺まで行われた。
戦争直後に日本に密航してきた“在日”はその多くが済州難民で、
小沢一郎も和田アキ子も、そのルーツは済州島なんだそうだ。
つまり、在日の多くは韓国政府に恨みこそあれ、必ずしも日本と敵対するような存在では本来ないわけだ。”
耽羅民族(たんらみんぞく)とは、古代から中世にかけて存在した耽羅国(現在の済州島)に住んでいた人々。
星主と言う国王を中心として、独自の神話・称号文化を持った民族だったが、
王氏高麗の侵略や高麗への併合を通じ、強引に推し進められた同化政策により混血が進み、更に李氏朝鮮を経て現在の韓国済州島民になった。
作家大宅壮一の著書「炎は流れる」の朝鮮編には、
「済州島民は朝鮮半島本土と違い、性格は温厚で生活様式が日本に近い」とある。
さて,高麗(こうらい)は、918年に王建(太祖)が建て、1392年まで続いた朝鮮半島の国。
都は開城
元来「高麗」は高句麗の後期における正式な国号であり、
当時の日本や中国でも高句麗を「高麗」と称していたため、
現代中国では区別のため王氏高麗と呼ぶこともある。
初期新羅は 倭人の国金氏新羅はワイ(穢多)族 に乗っ取られた、初期高麗は倭人系豪族=弓裔王(ユミスエ王)王氏高麗のワイ族に乗っ取られた、
金氏新羅はワイ(穢多)族国家であり、王氏高麗もワイ族国家である。
慶尚道北部および江原道(ソウル東方)の住民は、3世紀以前からワイ(穢多の「穢」族である。
百済人(韓人=倭人系民族)と対立していたワイ族なのである。
また、忠清道、京畿道、黄海道、平安道、これらの地方の住民は、8世紀以、江原道のワイ族が集団移住した結果、ワイ族化している。
ところが、古代の百済地方だった全羅道の住民(倭人系)は、
白村江戦争の時にワイ族を相手に戦っただけでなく、
白村江戦争以降も、慶尚道(新羅本領)のワイ族と融合することなく、対立してきた。
つまり、7世紀後半に成立した統一新羅の時代になっても、ワイ族に対して反抗的な態度を取り続けたのである。そのため、新羅のワイ族から激しく憎悪されたのだ。
その為8世紀から10世紀まで、新羅の歴代王は、旧百済地方の住民(つまり全羅道住民)を徹底的に差別する政策をとってきた。
新羅人(ワイ族)は、半島北部のワイ族に対しても、「全羅道の住民を差別しろ」と呼びかけた。
10世紀に成立した高麗王朝の建国者・王建は、高麗の後代王たちが必ず守るべき教訓として、『訓要十条』という掟を定めたが、この『訓要十条』の中に、「車嶺山脈以南(湖南地域、百済の故地に相当)の人間を官吏として登用するな」という規定がある。
この「定め」が原因で、全羅道の住民は差別されることになったと主張する韓国人が多いが、誤りである。 たしかに、王建が定めた『 訓要十条』は、全羅道住民に対する差別政策を固定化し、強化したが、全羅道住民に対する差別政策は、 高麗王朝から始まったわけではない。王建と高麗王府は、前王朝である金氏新羅の『韓人差別政策』を受け継いだにすぎない。
金氏新羅時代から、全羅道住民に対する差別政策は、すでに始まっていたのである。
金氏新羅はワイ(穢多)族国家であり、王氏高麗もワイ族国家である。
この2つの王朝はワイ族の王朝なのだ。
だから、
百済人(韓人=倭人系民族)
を憎悪し敵視する政策をとっていたのだ。
つまり、白村江戦争以降、半島の政治的・社会的主流派はワイ族となったのであり、
ワイ族の敵である韓人(倭人=百済人)は、徹底的に差別されたのである。
これが、半島における全羅道出身者に対する差別の真相なのである。
韓国人のルーツがエベンキって本当ですか?
エベンキの親戚、シベリアツングース粛慎の後裔が女真族と穢(ワイ)族。
穢族は四派に分裂、高句麗族も扶余族も穢四族のひとつ。
朝鮮民族の根底にあるアリラン・ソッテ・チャンスンのシベリア文化は穢族(高麗始祖王建)や女真族(李成桂)によりもたらされた。
ご存じ「アリラン(迎える)・スーリ(感じ取る)」も「巫女ムーダン」のシャーマニズムもシベリア起源
108:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん 2012/10/17(水) 20:51:04.14 ID:rhyB0Ylb
高句麗は夫余って民族の国。
エベンキ族が韓人になって、韓国人が日本人になりすます。
何時正体を現すのだろう。
年表で考える王氏高麗の歴史◆ 弓裔王(ユミスエ王)による高麗建国。
2011/3/5(土)17:09 - ヒストリアン - 122x215x127x16.ap122.ftth.ucom.ne.jp -
10世紀初頭、旧百済領=帯方地方の倭人系豪族、弓裔(ユミスエ)によって『高麗』が建国された。
しかし、この『高麗』は、ワイ族の首領=王建によって乗っ取られてしまう。
【西暦】
889年―:楽浪地方(現在の黄海道)の倭人系豪族=弓裔王(ユミスエ王)が、挙兵。
半島東部のケリン国(自称=新羅)に
対して軍事侵攻。
891年―:弓裔、鉄円を平定。鉄円の支配者で 山賊の頭領=王建が、弓裔に服従を誓う。
895年―:弓裔、王建を鉄円領主に封じる。
894年―:寛平六年に、ケリン(新羅)の海賊、肥前・肥後を襲う。
896年―:弓裔が、松嶽(まつたけ。現在の開城)に国を建てる。国号を『高麗』と称した。
901年―:弓裔王が、唐との外交関係を考慮し、国号を『高麗』から『泰封』(ダイファン=帯方)に改める。
904年―:東ワイ地方の山賊=王建が、鉄円(かねまる。現在の鉄原)で反乱を起こし、国を建てる。
国号を摩震(ましん)とする。
905年―:弓裔、鉄円(現在の江原道鉄原郡)に派兵。王建が率いるワイ族軍と交戦。
916年―:北方遊牧民族=契丹族の『遼』が成立
918年―:摩震国の王建が、弓裔王とその家族を殺す。
919年―:王建が松嶽に移住。ここを新しい都とし、国号を『摩震』から『高麗』に改めた。
920年―:王建の軍が北上。渤海領土に侵入し、渤海国民を虐殺。これにより王建軍と渤海軍の間で交戦となる。
926年―:北方民族=契丹族の遼、渤海を滅ぼす。遼国皇帝=耶律阿保機は、長子=耶律突欲を
『東丹国』の王とする。
926年―:渤海滅亡を好機と見た王建が、自ら率いるワイ軍を北上させ、ふたたび渤海領(現在の平安道)の住民を虐殺。
虐殺終了後、その地を高麗領土であると宣言。
930年―:久多良(現在の全羅道)の=甄萱王(スエカヤ王)と王建が、古昌郡瓶山麓で交戦、王建が勝利する。
久多良軍は撤退。
935年―:王建が、ケリン国(自称=新羅)を征服。半島東部を支配下に置く。
936年―:王建が、久多良国(クタラ。現在の全羅道)をふたたび侵略。倭人系住民を虐殺。
943年―:王建、67歳で死去。
済州島の耽羅民族は「朝鮮人とは違って」評判は良かったのだそうですが、
15世紀頃に朝鮮に侵略されてからは済州人も朝鮮人ということになりました。
このあたりは説明が難しいので省略します。
済州島が朝鮮人に支配された後、日本は室町時代でしたが、この頃に韓国とのかかわりが増え、同時に「かぶき者」 が日本国内に急増します。傍若無人なかぶき者同士で組織化して、盗んだ女物の着物をはおったり、犬を食べたりして暴れまわっていました。どう考えても密入国朝鮮人です。そしてヤクザの始まりでもあります。
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室町時代から顕著になった密入国朝鮮人は、江戸時代になってもまだ「かぶき者」として悪さをしていました。
徳川綱吉が「生類憐みの令」を始めたのも、かぶき者(=密入国朝鮮人)を取り締まる為のものだったとする説もある。
…と、色々と書いてみたのだが、文章量ほど面白い内容ではなかったので、ざっくし省略。
そういった面倒な密入国朝鮮人も、いつまでも強盗とか犯罪とかを続ける事も出来ず、家族や子孫が強盗や犯罪の二代目を受け継ぐ事もなく、穢多(エタ)として受け入れられたり、非人として蔑まれたりしたのだろう。
(一方で、日本人の村社会や世間体文化などの閉鎖的な傾向は、こういった密入国朝鮮人から身を守るために生まれた文化だとも考えられる)
27 :マンセー名無しさん:2012/06/19(火) 16:08:06.64 ID:48oNIWUU
耽羅民族(たんらみんぞく)とは、古代から中世にかけて存在した耽羅国(現在の済州島)に住んでいた人々。
星主と言う国王を中心として、独自の神話・称号文化を持った民族だったが、王氏高麗の侵略や高麗への併合を通じ、強引に推し進められた同化政策により混血が進み、更に李氏朝鮮を経て現在の韓国済州島民になった。
耽羅料理(見るからに韓国料理と違う)
↓
沖縄鹿児島料理にも似ている。