韓国人が
朝鮮戦争=日本に勝った戦争
ではないと知って
日本、韓半島サド配置で'第2の6.25'特需?
[円光(ウォングァン)大'韓中関係ブリーフィング']韓半島THAAD配備と'第2の6.25'気勢
2016.02.25 13:39:36
この前おもしろい本を読んだ。日本の歴史学者、原朗(はら あきら)が書いた「清日・露日戦争をどう見るか」だ。
[円光(ウォングァン)大'韓中関係ブリーフィング']韓半島THAAD配備と'第2の6.25'気勢
2016.02.25 13:39:36
この前おもしろい本を読んだ。日本の歴史学者、原朗(はら あきら)が書いた「清日・露日戦争をどう見るか」だ。
著者は同書で清日戦争と露日戦争が朝鮮の争奪をめぐる戦争であるから第一次・第二次朝鮮戦争'と呼ぶのが当然だと言及する。正しい言葉だ。現在も北方四島(クリル列島)等国境問題で葛藤のある日本とロシアは過去に激しい摩擦を体験した。
イム・サンフン円光大教授
ソース:プレシアン(韓国語)
「'6・25'(朝鮮戦争):その実体は米国と中国の戦いであり、私たちは以前と同じように私たちの土地で外勢に翻弄されたのだ」
「6・25特需の最大受恵者として日本は省けない」
イム・サンフン円光大教授
ソース:プレシアン(韓国語)
「'6・25'(朝鮮戦争):その実体は米国と中国の戦いであり、私たちは以前と同じように私たちの土地で外勢に翻弄されたのだ」
「6・25特需の最大受恵者として日本は省けない」
「敗戦後の日本の経済は1920年代水準に後退し敗戦による被害意識など最悪の沈滞期に陥っていた」
「もし戦争が起きれば、再び外勢は私たちの土地で私たちの民族を前面に出して戦うだろう」
「日本は再び'第二次6・25特需'で好況を享受することになるだろう」
朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書
-殺人鬼・金日成と殺人鬼・李承晩の戦争犯罪
李承晩の犯罪を忘れるな-100万人以上虐殺の保導連盟事件
韓国軍がベトナムで行った虐殺、強姦、放火、略奪
中国と韓国の日本非難・誹謗
領土問題についての意見
遊就館(靖国神社付属施設)移転と改称・靖国神社分社を
Ⅰ.朝鮮戦争の推移
北朝鮮軍の韓国奇襲攻撃
1950年6月25日早朝、北緯38度線で、突如、轟音がとどろいた。
北朝鮮軍が韓国に向けて砲撃を開始したのである。砲撃が終わると、
300両の最新鋭のソ連製戦車部隊を先頭に、10万人を超える
勇猛果敢な金日成の北朝鮮軍が北緯38度線を突破して韓国に雪崩れ込んだ。
北朝鮮のピョンヤン放送は、「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、
李承晩政権から、韓国人民を解放する」と、世界中に、高らかに告げた。
原因・理由は何であるにせよ、平和に暮らしている国に、一方的な奇襲攻撃で
戦争を仕掛けるということは、最高に極悪非道な犯罪行為である。
平和であった韓国に、突如、奇襲攻撃で侵略戦争を仕掛けた金日成は、
一点の疑いもなく、極悪非道な戦争犯罪者である。
李承晩の犯罪を忘れるな-100万人以上虐殺の保導連盟事件
韓国軍がベトナムで行った虐殺、強姦、放火、略奪
中国と韓国の日本非難・誹謗
領土問題についての意見
遊就館(靖国神社付属施設)移転と改称・靖国神社分社を
Ⅰ.朝鮮戦争の推移
北朝鮮軍の韓国奇襲攻撃
1950年6月25日早朝、北緯38度線で、突如、轟音がとどろいた。
北朝鮮軍が韓国に向けて砲撃を開始したのである。砲撃が終わると、
300両の最新鋭のソ連製戦車部隊を先頭に、10万人を超える
勇猛果敢な金日成の北朝鮮軍が北緯38度線を突破して韓国に雪崩れ込んだ。
北朝鮮のピョンヤン放送は、「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、
李承晩政権から、韓国人民を解放する」と、世界中に、高らかに告げた。
原因・理由は何であるにせよ、平和に暮らしている国に、一方的な奇襲攻撃で
戦争を仕掛けるということは、最高に極悪非道な犯罪行為である。
平和であった韓国に、突如、奇襲攻撃で侵略戦争を仕掛けた金日成は、
一点の疑いもなく、極悪非道な戦争犯罪者である。
この電光石火の北朝鮮の奇襲攻撃に対し、李承晩の韓国はなすすべがなかった。
対日憎悪感の権化・李承晩は、いかに日本に報復するかに没頭しており、
北朝鮮が侵攻するなどとは、まったく考えていなかった。
勘違い、誤報、意図的な偽情報が韓国中を飛びかった。
何が事実なのか誰も分からなかった。さらに、驚くべきことに、この北朝鮮
奇襲攻撃の事実が、大統領の李承晩に知らされたのは、砲撃開始・戦車隊の
北緯38度線突破から数時間たった後であった。
対日報復の鬼・李承晩の韓国は、金日成の北朝鮮に対する警戒心は
まったくなかった。それほど、金日成を信用していたのである。
2.北朝鮮軍の快進撃
無知・無能・無策・無責任な李承晩を筆頭に、当時の韓国政府が、うろたえて、
右往左往している間に、北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下してきた。
開城(ケソン)はたった数時間で陥落。その60km南の首都ソウルの
防衛ラインは、次々と、楽々に突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。
このようなワンサイドな戦いとなったのは、奇襲にもよるが、軍事力でも、
北朝鮮軍と韓国軍とでは、圧倒的な差があったからである。
韓国軍は、総兵力10万人。戦車はゼロ。大砲もわずか91門。
これに対して、北朝鮮軍は、総兵力20万人、ソ連製最新鋭T-34戦車など300両、
大砲も最新鋭のSU-76M自走砲など552門と、圧倒的に優勢な戦力であった。
北朝鮮の主力戦車は第2次世界大戦のソ連の傑作、最新鋭のT-34戦車である。
韓国軍の火砲は、T-34戦車の分厚い装甲を撃ち抜くことができなかった。
陸上の戦闘を制するのは、火力と機動力である。つまり、重火器と戦車である。
この2つにおいて、北朝鮮軍は韓国軍を圧倒した。加えて、北朝鮮軍は、
この日に備えて、猛訓練を重ねていた。一方の李承晩の韓国軍は、
戦争が起こるなど夢にも思っていなかった。
つまり、練度と戦意においても、北朝鮮と韓国では天地の差があった。
1950年6月27日、トルーマン米国大統領が主導し、国連安保理が開催され、
北朝鮮非難決議が採択された。
しかし、その間にも、北朝鮮軍の侵攻はつづいた。北朝鮮軍のT-34戦車が
戦場に現れると、韓国軍は、一戦も交わさず、ひたすら逃げた。
戦況は絶望的だった。重戦車と軽歩兵の戦いは、針でバターを刺すようなもの。
李承晩の韓国政府はいち早くソウルを捨て、33km南方の水原に首都を移した。
3.米国の朝鮮戦争参戦
トルーマン大統領は、矢継ぎ早に命令を発した。在日米軍を釜山(プサン)に
派遣し、海軍を韓国海域に出動させた。さらに、台湾を中国から守るため、
第7艦隊を極東に派遣した。そして、この作戦のすべての指揮権を、東京にいた
マッカーサー元帥に与えた。トルーマン大統領は、前任のルーズベルト大統領とは
違って、反共意識が強く、決断も行動も迅速だった。
マッカーサー元帥は、最年少で少将に昇進、50才で米国陸軍参謀総長になる。
太平洋戦争では日本軍と戦い勝利した。日本敗戦後は、SCAP/GHQの
最高司令官として日本占領業務にあたっていた。
極東で突然勃発した事件の解決は、この70歳の老将軍に委ねられた。
1950年6月28日、韓国軍の将兵とソウル市民が、首都ソウルを脱出し、
漢江の橋に殺到した。このとき、韓国軍は北朝鮮軍の追撃を防ぐため橋を爆破した。
ところが、ソウル市民の渡橋は、まだ終わっておらず、数百人が犠牲になった。
さらに、漢江の橋が爆破されたため、多くの市民がソウルに取り残された。この日の
夕方、北朝鮮軍はソウルを完全制圧した。
占領したソウルで行った北朝鮮軍の悪行
徴兵された韓国の一般市民は、まともな武器は持たされず、「弾丸避け(タマヨケ))」に使われた。
4.韓国政府降伏で戦争終了の事態に
6月29日、マッカーサー元帥は東京から朝鮮半島に飛んだ。自分の目で、
状況を確認するためである。前線を視察したマッカーサー元帥は、
韓国軍主導では、勝ち目は100%ないと判断した。
そして、直ちに、トルーマン大統領に米国地上軍の派遣を要請した。ところが、
スターリンのソ連が、「朝鮮の内政問題に外国が介入すべきではない」と
主張したため、トルーマン大統領は米地上軍の派遣を躊躇した。
いずれ、国連軍は出動するだろうが、それまで韓国はもたない。
マッカーサー元帥はそう確信した。
すでに、首都ソウルが占領されている。マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に
爆撃の許可を申請し、回答を待たず爆撃を敢行した。
もし、当時、米軍の最高司令官がマッカーサー元帥でなかったら、1950年8月末に
北朝鮮軍が朝鮮全土を制圧し、韓国政府が降伏して、朝鮮戦争が終わっていた
可能性が高い。
6月30日、北朝鮮軍は、漢江を渡河し、南進を再開した。朝鮮半島最南端の
釜山(プサン)までわずか330km。「東京~大阪」の距離である。
釜山が陥落すれば、戦争は終わる。北朝鮮軍は、韓国の臨時首都、水原に
猛攻撃を加えた。韓国軍の指揮系統・連絡網はズタズタになり、水原の陥落は
時間の問題だった。マッカーサー元帥は、再びトルーマン大統領に米地上軍
投入を迫り、ついに認めさせた。
7月1日、臨時首都の水原は陥落。李承晩は釜山に逃げ込んだ。
このとき、敗走する李承晩は、自国を守れず遁走しながら、武器を持たない
一般市民を、共産党関係者だと決めつけ、20万人以上の一般市民を
虐殺した。武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨てて、ひたすら
逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国の一般市民を、平気で虐殺
したのである。李承晩は本当に悪い奴であった。
朝鮮戦争以前においても、反共の闘士と自称する李承晩は、赤狩りと称して、済州島等の
自分に反対する南朝鮮労働党と人民委員会を徹底的に弾圧した。軍隊を投入して、反対する
一般市民6万人以上を虐殺した。済州島の村々の70%を焼き尽くした。
一方、北朝鮮の金日成は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、
地主やその家族などの一般市民・数十万人を、「反共産主義の反動分子」との手前勝手な
罪名をつけて、大量虐殺した。
南の李承晩、北の金日成の二人は、いずれも、良心を欠く極悪非道な殺人鬼で、
武器を持たない一般市民を虐殺しあっていた。
パブロ・ピカソ 1951年作 『朝鮮の虐殺』 パリ・国立ピカソ美術館所蔵
同日、7月1日、在日米軍が釜山に上陸した。同時に、沖縄基地から爆撃機B29が発進、
北朝鮮軍を爆撃した。
7月2日、在日米軍は北上して大田(テジョン)に到着した。大田は、ソウルと
釜山をむすぶ要衝である。在日米軍はここに強固な防衛線を築き、北朝鮮軍を
食い止める作戦だった。
7月3日、漢江の橋の修復が終わると、北朝鮮軍の戦車が漢江南岸に殺到した。
韓国の防衛線は一瞬にして崩壊した。小火器で重戦車に挑むのは、どだい、
ムリな話なのである。
ところで、なぜ韓国軍は戦車を持っていなかったのか? じつは、1年後に、
米国からM26戦車を受領する予定だった。 北朝鮮の奇襲が1年後であった
ならば、状況は変わっていたかもしれない。
7月7日、米国を中心に、16ヵ国が参加して国連軍が編成された。しかし、
こうしている間にも、北朝鮮軍の南進は続いていた。在日米軍は、大田から
北上を試みたが失敗、逆に押し返されてしまう。その後、国連軍も合流したが、
7月中頃までに、兵数は半減、大田の維持すら困難になった。そこで、
韓国政府は大邱に逃げ込んだ。
7月20日、北朝鮮軍の猛攻で大田が陥落した。
さらに、8月末までに、国連軍は、大邱と釜山、朝鮮半島南部に押し込まれた。
このままでは、全軍が日本海に追い落とされる。
しかし、背水の陣となった国連軍は必死だった。米軍の将軍たちはこう宣言した。
「朝鮮半島からの撤退はありえない。我々は最後まで戦う」
You tube:Re-enactment of the 1950 Nakdong River Battle
5.マッカーサー元帥の反撃
一方、北朝鮮軍にもアキレス腱があった。快進撃の結果、兵站線が伸びきっていた。
ピョンヤンから大邱まで、直線距離にして400km。
兵站とは、戦闘部隊の後方支援で、燃料・弾薬・食料の補給、兵員や兵器の
補充を行う。兵站線が長いほど補給は難しくなり、兵站線を途中で絶たれる可能性もある。
当然、兵站線を絶たれた先には補給は届かない。兵站線は軍隊の血管なのだ。
北朝鮮軍は優勢だったが、国連軍に対する最後の一撃が打ち込めなかった。
一方、国連軍は、防戦一方で、反撃する余力はなかった。
そこで、マッカーサー元帥は、戦況を一転させる奇襲を断行する。
兵站線の真ん中、仁川に強襲上陸し、北朝鮮軍を南北から挟撃するのである。
単純明快、鮮やかな作戦だが、包囲殲滅される可能性もある。奇策、どちらかと
いうとバクチに近い。これが歴史に残る「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」である。
9月15日、国連・韓国軍は仁川に奇襲上陸した。危険な敵前上陸を任務とする
米海兵隊を先頭に、7万人が上陸に成功した。このとき、M26重戦車をはじめ、
重火器も大量に送り込まれた。
北朝鮮軍は、国連・韓国軍に挟撃され、算を乱して逃走し始めた。戦局は一変した。
対日憎悪感の権化・李承晩は、いかに日本に報復するかに没頭しており、
北朝鮮が侵攻するなどとは、まったく考えていなかった。
勘違い、誤報、意図的な偽情報が韓国中を飛びかった。
何が事実なのか誰も分からなかった。さらに、驚くべきことに、この北朝鮮
奇襲攻撃の事実が、大統領の李承晩に知らされたのは、砲撃開始・戦車隊の
北緯38度線突破から数時間たった後であった。
対日報復の鬼・李承晩の韓国は、金日成の北朝鮮に対する警戒心は
まったくなかった。それほど、金日成を信用していたのである。
2.北朝鮮軍の快進撃
無知・無能・無策・無責任な李承晩を筆頭に、当時の韓国政府が、うろたえて、
右往左往している間に、北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下してきた。
開城(ケソン)はたった数時間で陥落。その60km南の首都ソウルの
防衛ラインは、次々と、楽々に突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。
このようなワンサイドな戦いとなったのは、奇襲にもよるが、軍事力でも、
北朝鮮軍と韓国軍とでは、圧倒的な差があったからである。
韓国軍は、総兵力10万人。戦車はゼロ。大砲もわずか91門。
これに対して、北朝鮮軍は、総兵力20万人、ソ連製最新鋭T-34戦車など300両、
大砲も最新鋭のSU-76M自走砲など552門と、圧倒的に優勢な戦力であった。
北朝鮮の主力戦車は第2次世界大戦のソ連の傑作、最新鋭のT-34戦車である。
韓国軍の火砲は、T-34戦車の分厚い装甲を撃ち抜くことができなかった。
陸上の戦闘を制するのは、火力と機動力である。つまり、重火器と戦車である。
この2つにおいて、北朝鮮軍は韓国軍を圧倒した。加えて、北朝鮮軍は、
この日に備えて、猛訓練を重ねていた。一方の李承晩の韓国軍は、
戦争が起こるなど夢にも思っていなかった。
つまり、練度と戦意においても、北朝鮮と韓国では天地の差があった。
1950年6月27日、トルーマン米国大統領が主導し、国連安保理が開催され、
北朝鮮非難決議が採択された。
しかし、その間にも、北朝鮮軍の侵攻はつづいた。北朝鮮軍のT-34戦車が
戦場に現れると、韓国軍は、一戦も交わさず、ひたすら逃げた。
戦況は絶望的だった。重戦車と軽歩兵の戦いは、針でバターを刺すようなもの。
李承晩の韓国政府はいち早くソウルを捨て、33km南方の水原に首都を移した。
3.米国の朝鮮戦争参戦
トルーマン大統領は、矢継ぎ早に命令を発した。在日米軍を釜山(プサン)に
派遣し、海軍を韓国海域に出動させた。さらに、台湾を中国から守るため、
第7艦隊を極東に派遣した。そして、この作戦のすべての指揮権を、東京にいた
マッカーサー元帥に与えた。トルーマン大統領は、前任のルーズベルト大統領とは
違って、反共意識が強く、決断も行動も迅速だった。
マッカーサー元帥は、最年少で少将に昇進、50才で米国陸軍参謀総長になる。
太平洋戦争では日本軍と戦い勝利した。日本敗戦後は、SCAP/GHQの
最高司令官として日本占領業務にあたっていた。
極東で突然勃発した事件の解決は、この70歳の老将軍に委ねられた。
1950年6月28日、韓国軍の将兵とソウル市民が、首都ソウルを脱出し、
漢江の橋に殺到した。このとき、韓国軍は北朝鮮軍の追撃を防ぐため橋を爆破した。
ところが、ソウル市民の渡橋は、まだ終わっておらず、数百人が犠牲になった。
さらに、漢江の橋が爆破されたため、多くの市民がソウルに取り残された。この日の
夕方、北朝鮮軍はソウルを完全制圧した。
占領したソウルで行った北朝鮮軍の悪行
徴兵された韓国の一般市民は、まともな武器は持たされず、「弾丸避け(タマヨケ))」に使われた。
4.韓国政府降伏で戦争終了の事態に
6月29日、マッカーサー元帥は東京から朝鮮半島に飛んだ。自分の目で、
状況を確認するためである。前線を視察したマッカーサー元帥は、
韓国軍主導では、勝ち目は100%ないと判断した。
そして、直ちに、トルーマン大統領に米国地上軍の派遣を要請した。ところが、
スターリンのソ連が、「朝鮮の内政問題に外国が介入すべきではない」と
主張したため、トルーマン大統領は米地上軍の派遣を躊躇した。
いずれ、国連軍は出動するだろうが、それまで韓国はもたない。
マッカーサー元帥はそう確信した。
すでに、首都ソウルが占領されている。マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に
爆撃の許可を申請し、回答を待たず爆撃を敢行した。
もし、当時、米軍の最高司令官がマッカーサー元帥でなかったら、1950年8月末に
北朝鮮軍が朝鮮全土を制圧し、韓国政府が降伏して、朝鮮戦争が終わっていた
可能性が高い。
6月30日、北朝鮮軍は、漢江を渡河し、南進を再開した。朝鮮半島最南端の
釜山(プサン)までわずか330km。「東京~大阪」の距離である。
釜山が陥落すれば、戦争は終わる。北朝鮮軍は、韓国の臨時首都、水原に
猛攻撃を加えた。韓国軍の指揮系統・連絡網はズタズタになり、水原の陥落は
時間の問題だった。マッカーサー元帥は、再びトルーマン大統領に米地上軍
投入を迫り、ついに認めさせた。
7月1日、臨時首都の水原は陥落。李承晩は釜山に逃げ込んだ。
このとき、敗走する李承晩は、自国を守れず遁走しながら、武器を持たない
一般市民を、共産党関係者だと決めつけ、20万人以上の一般市民を
虐殺した。武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨てて、ひたすら
逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国の一般市民を、平気で虐殺
したのである。李承晩は本当に悪い奴であった。
朝鮮戦争以前においても、反共の闘士と自称する李承晩は、赤狩りと称して、済州島等の
自分に反対する南朝鮮労働党と人民委員会を徹底的に弾圧した。軍隊を投入して、反対する
一般市民6万人以上を虐殺した。済州島の村々の70%を焼き尽くした。
一方、北朝鮮の金日成は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、
地主やその家族などの一般市民・数十万人を、「反共産主義の反動分子」との手前勝手な
罪名をつけて、大量虐殺した。
南の李承晩、北の金日成の二人は、いずれも、良心を欠く極悪非道な殺人鬼で、
武器を持たない一般市民を虐殺しあっていた。
パブロ・ピカソ 1951年作 『朝鮮の虐殺』 パリ・国立ピカソ美術館所蔵
同日、7月1日、在日米軍が釜山に上陸した。同時に、沖縄基地から爆撃機B29が発進、
北朝鮮軍を爆撃した。
7月2日、在日米軍は北上して大田(テジョン)に到着した。大田は、ソウルと
釜山をむすぶ要衝である。在日米軍はここに強固な防衛線を築き、北朝鮮軍を
食い止める作戦だった。
7月3日、漢江の橋の修復が終わると、北朝鮮軍の戦車が漢江南岸に殺到した。
韓国の防衛線は一瞬にして崩壊した。小火器で重戦車に挑むのは、どだい、
ムリな話なのである。
ところで、なぜ韓国軍は戦車を持っていなかったのか? じつは、1年後に、
米国からM26戦車を受領する予定だった。 北朝鮮の奇襲が1年後であった
ならば、状況は変わっていたかもしれない。
7月7日、米国を中心に、16ヵ国が参加して国連軍が編成された。しかし、
こうしている間にも、北朝鮮軍の南進は続いていた。在日米軍は、大田から
北上を試みたが失敗、逆に押し返されてしまう。その後、国連軍も合流したが、
7月中頃までに、兵数は半減、大田の維持すら困難になった。そこで、
韓国政府は大邱に逃げ込んだ。
7月20日、北朝鮮軍の猛攻で大田が陥落した。
さらに、8月末までに、国連軍は、大邱と釜山、朝鮮半島南部に押し込まれた。
このままでは、全軍が日本海に追い落とされる。
しかし、背水の陣となった国連軍は必死だった。米軍の将軍たちはこう宣言した。
「朝鮮半島からの撤退はありえない。我々は最後まで戦う」
You tube:Re-enactment of the 1950 Nakdong River Battle
5.マッカーサー元帥の反撃
一方、北朝鮮軍にもアキレス腱があった。快進撃の結果、兵站線が伸びきっていた。
ピョンヤンから大邱まで、直線距離にして400km。
兵站とは、戦闘部隊の後方支援で、燃料・弾薬・食料の補給、兵員や兵器の
補充を行う。兵站線が長いほど補給は難しくなり、兵站線を途中で絶たれる可能性もある。
当然、兵站線を絶たれた先には補給は届かない。兵站線は軍隊の血管なのだ。
北朝鮮軍は優勢だったが、国連軍に対する最後の一撃が打ち込めなかった。
一方、国連軍は、防戦一方で、反撃する余力はなかった。
そこで、マッカーサー元帥は、戦況を一転させる奇襲を断行する。
兵站線の真ん中、仁川に強襲上陸し、北朝鮮軍を南北から挟撃するのである。
単純明快、鮮やかな作戦だが、包囲殲滅される可能性もある。奇策、どちらかと
いうとバクチに近い。これが歴史に残る「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」である。
9月15日、国連・韓国軍は仁川に奇襲上陸した。危険な敵前上陸を任務とする
米海兵隊を先頭に、7万人が上陸に成功した。このとき、M26重戦車をはじめ、
重火器も大量に送り込まれた。
北朝鮮軍は、国連・韓国軍に挟撃され、算を乱して逃走し始めた。戦局は一変した。
(以下略)
www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html