吉田清二というヤツが慰安婦の火付
け役なんだが、こいつ尼崎の連中み
たく、背乗りの偽物日本人であった
らしい。
>従軍慰安婦って朝日新聞が捏造して 福島瑞穂いう在日弁護士が一儲けを企んで拡散したいうのが真実
もちっと奥が深い。
吉田清二というヤツが慰安婦の火付け役なんだが、
こいつ尼崎の連中みたく
こいつ尼崎の連中みたく
背乗りの偽物日本人であったらしい。
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・・・門司市立商業学校の卒業生名簿に「吉田雄兎」の名があり、それによれば、
1931年同校を卒業したことになるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。
・・・法政大学専門部法科に在籍したことを秦に対して説明している。
しかし実際には、法政大学の在籍記録には吉田の名は掲載されていない
・・・1939年から翌年にかけて中華航空上海支店に勤務したことになっているが、
上杉千年の調べでは1992年5月の中華航空社員会で吉田を記憶する者がいなかったという
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慰安婦は外国(北朝鮮か韓国)の謀略で、
日本からカネをゆすり取るために企画された 案件だったんだろう。
日本からカネをゆすり取るために企画された 案件だったんだろう。
吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - )は福岡県(山口県とも)出身の元日本陸軍軍人であり作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎。別名は東司、栄司。
『私の戦争犯罪』(1983年)などの著書を上梓し、済州島などで戦時中に朝鮮人女性を慰安婦にするために軍令で強制連行(「慰安婦狩り」)をしたと告白証言を行いその謝罪活動などが注目されたが、後に日本と韓国の追跡調査から創作であることが判明し、本人も慰安婦狩りが創作であったことを認めた[1][2][3]。しかし、吉田の証言は国連クマラスワミ報告(1996年)やアメリカ合衆国下院121号決議(2007年)などの事実認定でも有力な証拠として用いられている[4][5]。
吉田によれば、1939年から翌年にかけて中華航空上海支店に勤務したことになっている[7]が、上杉千年の調べでは1992年5月の中華航空社員会で吉田を記憶する者がいなかったという[9]。
吉田の自著によれば、1940年6月、吉田は朝鮮独立運動の首領で日本民間人を殺害した金九を輸送したかどで憲兵に逮捕され、軍法会議で懲役2年の刑を受けたという[10]。これによれば、1942年6月に諫早刑務所(別書には南京の刑務所)を出所している[10]。ただし、吉田本人は1996年秦郁彦に対し、金九ではなく中華民国重慶軍の大佐だったと訂正、罪名についても阿片密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。
吉田の自著によれば、1940年6月、吉田は朝鮮独立運動の首領で日本民間人を殺害した金九を輸送したかどで憲兵に逮捕され、軍法会議で懲役2年の刑を受けたという[10]。これによれば、1942年6月に諫早刑務所(別書には南京の刑務所)を出所している[10]。ただし、吉田本人は1996年秦郁彦に対し、金九ではなく中華民国重慶軍の大佐だったと訂正、罪名についても阿片密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。
吉田によれば、1942年9月、同郷の先輩の世話で労務報国会下関支部動員部長になった[11][12]ということだが、
これについては、中川八洋が2年間刑務所にあった「前科者」が、出所後すぐに内務省系団体の動員部長に任用されることはありえないと指摘し、もし彼が中華航空の社員であったのならば、民間人である吉田が軍人・兵士を対象とする軍法会議にかけられるはずがないとして、その説明が虚偽であることを検証している[13]。
これについては、中川八洋が2年間刑務所にあった「前科者」が、出所後すぐに内務省系団体の動員部長に任用されることはありえないと指摘し、もし彼が中華航空の社員であったのならば、民間人である吉田が軍人・兵士を対象とする軍法会議にかけられるはずがないとして、その説明が虚偽であることを検証している[13]。
ただし、吉田が労務報国会下関支部に在籍していたことは事実で、これについては、複数名、吉田の勤務を記憶している人がいた。吉田が済州島で慰安婦狩りをしたというのはこの時期のことであるが、当時の朝鮮総督府管内には、朝鮮労務協会や内地の労報に相当する労務報告会があったため、労務調達のため内地の労報支部員が直接出向いて徴集しなければならない理由はなかった[14]。また、吉田の陳述では西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで労務調達の命令がくだされたとしているが、当時、このような命令系統は存在しなかった。
吉田は、三一書房刊『私の戦争犯罪』(1983年)において、1943年5月15日付の西部軍動員命令によって1943年5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を慰安婦要員として強制連行したと書き[15]。その要点は妻の日記に記載されているとした[16]。しかし、吉田が大野フサエという女性と結婚したのはその一年後の1944年5月18日のことであり、妻の日記に動員命令の要旨が記載されているとは考えにくい。
1977年以降、吉田は戦時中に済州島などでアフリカの奴隷狩りのように若い朝鮮人女性を軍令で捕獲・拉致し、強制連行したと著書や新聞や講演などで語った[17]。その後、済州島の新聞「済州新聞」が追跡調査で当時そうした「慰安婦狩り」を島民が聞いた事がないという証言を得て吉田証言は事実ではないと報道。その後、秦郁彦らも追跡調査を行い、同様の結論にいたった[18]。また吉見義明も吉田本人から創作を交えたことを聞いたため、吉田証言は資料としては用いることができないと確認した[19]。
しかし、吉田証言は、1992年の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書や1996年の国連人権委員会のクマラスワミ報告や1998年のマクドゥーガル報告書でも慰安婦強制連行の証拠として採用された[4]。また、これら報告はその後も修正していない[4]。2006年の米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記された[5]。その後、日本側の批判を受けて、2007年の改訂版では「吉田証言」が削除された[5]。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としたうえで、2007年6月26日にアメリカ合衆国下院121号決議が可決した[5]。さらに2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違憲」と判決した際にも事実認定としてクマラスワミ報告、マクドゥーガル報告書、アメリカ合衆国下院121号決議が根拠とされ、吉田証言も事実認定の有力な証拠のひとつとして用いられた[20][21]。
公開日: 2014/02/03
女子挺身隊を従軍慰安婦と混同させる報道で名を馳せた朝日新聞の記者が、
この春に早期退職して神戸の大学の教授に収まるという。
慰安婦プロパガンダが全米で猖獗し、
在米邦人が謂われ無き差別に苦しめられている現状を見たとき、
記者には、退職する前に自らの報道に対する説明責任を
果たしていくべきであろう。
そう考えた大高未貴さんは、早速、記者の在籍する朝日新聞・北海道支社に
飛んだのだが・・
※日本文化チャンネル桜の一幕
この春に早期退職して神戸の大学の教授に収まるという。
慰安婦プロパガンダが全米で猖獗し、
在米邦人が謂われ無き差別に苦しめられている現状を見たとき、
記者には、退職する前に自らの報道に対する説明責任を
果たしていくべきであろう。
そう考えた大高未貴さんは、早速、記者の在籍する朝日新聞・北海道支社に
飛んだのだが・・
※日本文化チャンネル桜の一幕
公開日: 2014/02/08
ジャーナリストの大高未貴さんが、韓国が捏造した従軍慰安婦たちのその後について語っ­ています。 韓国が主張する従軍慰安婦たちのその後を取材したみたら、捏造したという証拠しかあり­ません。 物事の一部を切り取って、事実を歪曲していたのが、従軍慰安婦なのです。 こういったことをするから、韓国は民度が低いといわれることを理解してもらいたいです­ね。 チャンネル桜 2013年8月3日放送分より 画像:http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2...
公開日: 2014/02/08
【慰安婦捏造問題】国賊・辻本清美vs国士・杉田水脈!日本憂う人はどっちだバトル!
国賊と国士、これ程にちがうものなんですね。
ぜひ、杉田水脈議員にはがんばって頂きたいものです。
国賊と国士、これ程にちがうものなんですね。
ぜひ、杉田水脈議員にはがんばって頂きたいものです。
公開日: 2014/01/22
韓国の安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大学名誉教授が、「韓国の嘘」を告発していま