【歴史戦】朝日記事の「万人坑」はなかった…
本多勝一記者「中国の主張を代弁しただけ」と
醜い言い逃れ 虚偽の拡大は慰安婦問題と同根
昭和史を研究してきた田辺敏雄は
「中国の旅」を執筆した元朝日新聞記者、本多勝一とその連載記事を単行本、文庫本として
刊行した朝日新聞社に憤る一人だ。
「朝日新聞は数多くあったはずの抗議や反論を軽んじ、『中国の旅』に実名で書かれた人々の名誉を傷つけ、
刊行した朝日新聞社に憤る一人だ。
「朝日新聞は数多くあったはずの抗議や反論を軽んじ、『中国の旅』に実名で書かれた人々の名誉を傷つけ、
日本人に大虐殺のぬれぎぬを着せた」
田辺がここで言う「大虐殺」とは南京事件のことではない。本多が連載の前半で大きく取り上げた「万人坑」のことを指す。
本多は 昭和46年6月下旬から7月はじめにかけて中国東北地方で取材した内容を4部構成の連載の前半で報告した。「万人坑」は 第2部のタイトルとなっている。
「万人坑とは、虐殺された中国人の死体を集めて、何千人、あるいは万単位で埋めた巨大な『ヒト捨て場』である」(46年9月13日付 朝日夕刊)
「中国の、とくに東北地方には、鉱山や大工事現場に、必ず万人坑ができました。何千人、何万人という中国人の死体の丘です」 (同10月6日付夕刊)
戦時中、旧満州の日本企業の鉱山や大規模工事現場では過酷な労働で「使い殺され」た中国人労働者の遺体や「消耗して動けなく」なった労働者を生きたまま、万単位で埋める「ヒト捨て場」が「必ず」あり、それが「万人坑」だと本多は伝えたのだ。
■ ■
連載では、南満州鉄道株式会社が経営していた撫順炭坑(遼寧省撫順)と南満州鉱業株式会社(南満鉱業)のマグネサイト鉱山(同省大石橋)が取り上げられた。「万人坑」は撫順に30カ所以上、大石橋には3カ所と報告されている。本多はこう解説する。
「仮に一日平均二十人が“消耗”されるとしよう。百日で二千人、一年間で七千三百人に達する。『万人坑』という言葉のように、ひとつの万人坑を一万人とすれば、この大石橋にある三つの万人坑(三万人)ができるまでに、ほぼ四年あればよい」(同10月11日付夕刊)
大石橋の「万人坑」の一つ「虎石溝万人坑」。現地で「階級闘争を決して忘れるな」と正面に書かれた入り口を通過し、白骨死体の「厚い層」を見た本多は、感想をこう書き記した。
「私はまだ、ナチがやったアウシュビッツ殺人工場の現場を見たことはない。だからこの万人坑のような恐ろしい光景は、生涯で初めてだった」
白骨死体の写真も朝日の紙面に掲載された。
■ ■
「万人坑」に強い疑問を抱いた田辺は調査を始めた。
田辺がここで言う「大虐殺」とは南京事件のことではない。本多が連載の前半で大きく取り上げた「万人坑」のことを指す。
本多は 昭和46年6月下旬から7月はじめにかけて中国東北地方で取材した内容を4部構成の連載の前半で報告した。「万人坑」は 第2部のタイトルとなっている。
「万人坑とは、虐殺された中国人の死体を集めて、何千人、あるいは万単位で埋めた巨大な『ヒト捨て場』である」(46年9月13日付 朝日夕刊)
「中国の、とくに東北地方には、鉱山や大工事現場に、必ず万人坑ができました。何千人、何万人という中国人の死体の丘です」 (同10月6日付夕刊)
戦時中、旧満州の日本企業の鉱山や大規模工事現場では過酷な労働で「使い殺され」た中国人労働者の遺体や「消耗して動けなく」なった労働者を生きたまま、万単位で埋める「ヒト捨て場」が「必ず」あり、それが「万人坑」だと本多は伝えたのだ。
■ ■
連載では、南満州鉄道株式会社が経営していた撫順炭坑(遼寧省撫順)と南満州鉱業株式会社(南満鉱業)のマグネサイト鉱山(同省大石橋)が取り上げられた。「万人坑」は撫順に30カ所以上、大石橋には3カ所と報告されている。本多はこう解説する。
「仮に一日平均二十人が“消耗”されるとしよう。百日で二千人、一年間で七千三百人に達する。『万人坑』という言葉のように、ひとつの万人坑を一万人とすれば、この大石橋にある三つの万人坑(三万人)ができるまでに、ほぼ四年あればよい」(同10月11日付夕刊)
大石橋の「万人坑」の一つ「虎石溝万人坑」。現地で「階級闘争を決して忘れるな」と正面に書かれた入り口を通過し、白骨死体の「厚い層」を見た本多は、感想をこう書き記した。
「私はまだ、ナチがやったアウシュビッツ殺人工場の現場を見たことはない。だからこの万人坑のような恐ろしい光景は、生涯で初めてだった」
白骨死体の写真も朝日の紙面に掲載された。
■ ■
「万人坑」に強い疑問を抱いた田辺は調査を始めた。
旧撫順炭坑、旧南満鉱業の関係者らにアンケートを送付。
回答した約60人と面会するなどしたところ、全調査対象者が次のように答えた。
「万人坑を見たことがない」「万人坑という言葉も知らなかった」
田辺は平成2年、雑誌「正論」(8月号)で「万人坑はなかった」とする調査結果を発表した。
回答した約60人と面会するなどしたところ、全調査対象者が次のように答えた。
「万人坑を見たことがない」「万人坑という言葉も知らなかった」
田辺は平成2年、雑誌「正論」(8月号)で「万人坑はなかった」とする調査結果を発表した。
これに本多は「少数のアンケートで
断定するのはおかしい」と反論した。
断定するのはおかしい」と反論した。
双方の主張の食い違いを受け、旧撫順炭坑関係者らでつくる東京撫順会は約1000人の全会員にアンケートを送付した。469人から得た
回答を精査し、同会は「強制労働による犠牲者の“人捨て場”としての万人坑がなかったことははっきりした」と結論づけた。
旧南満鉱業の幹部らは連載当時に朝日に「万人坑は事実無根だ」と記事取り消しを求めていた。だが、「門前払い」だったという。
本多にも撫順炭坑で電気技師をしていた久野健太郎が手紙を送って抗議した。本多は昭和61年3月、久野にこんな返信を寄せた。
「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」
連載当時は多くの人が存命だったはずだが、本多や朝日が日本側関係者を取材した形跡は見当たらない。
■ ■
田辺の問題提起をきっかけに「万人坑」は改めて関心を集める。元朝日新聞記者、本多勝一による「中国の旅」連載から約20年後のことだった。
中国人労働者を使い捨て、死なせたとの汚名を着せられた当時の関係者らも再び動き出した。
平成3年4月、東京撫順会は朝日新聞に記事の取り消しを申し入れた。
「万人坑は作り話、あるいは著しく事実と相違したものを、事実であるかのように記述してある」
「本多記者は『中国側の言うのをそのまま代弁しただけ』ともいうが、このまま放置すれば、作り話などが『歴史的事実』として確定してしまう」
すでに『大百科事典』(平凡社、昭和60年版)のように本多の「中国の旅」に依拠して「万人坑」を記載した事典が現れていた。
■ ■
南満鉱業社友会も続いた。平成3年4月、本多の記事は「とんでもない虚報」「事実であるがごとき報道をされたままでは、同僚に対して、
また国民に対し申し訳がたたない」として、朝日に「万人坑」報道の関連部分の削除や単行本、文庫本『中国の旅』の廃刊、回収を求めた。
朝日は要求には応じず、3年6月、読者広報室長名で両団体に書面でそれぞれこんな回答を寄せた。
「万人坑については、本多を含め私どもといたしましても、さらに調査を進める必要があると以前から考えています。(中略)この際、東京撫順会の
方とも共同で調査出来れば幸いと存じます」(東京撫順会に)
「本多は『万人坑』など当時の聞き書きについて、こんどは『旅』ではなく、改めて精密な現地取材をすることを考えております」(南満鉱業社友会に)
産経新聞は朝日新聞広報部と本多に対し、その後、取材したかただした。本多は回答しなかった。朝日は「古い話であり、現時点では
回答できることはありません」とした。
裏付け取材もないまま一方の主張のみを報じ、反論に対しては真摯(しんし)に向き合おうとしない。韓国・済州島で女性狩りをしたという吉田清治の虚偽証言の関連記事をはじめとする慰安婦報道では、こうした朝日の姿勢が厳しく批判された。数々の疑問や反証から耳目をそらし、長年非を認めずに虚偽を広め続けたからだ。
吉田の虚偽証言について、いまでは政府さえも「朝日新聞社により事実であるかのように大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社会にも大きな影響を与えた」との見解を示すようになった。
回答を精査し、同会は「強制労働による犠牲者の“人捨て場”としての万人坑がなかったことははっきりした」と結論づけた。
旧南満鉱業の幹部らは連載当時に朝日に「万人坑は事実無根だ」と記事取り消しを求めていた。だが、「門前払い」だったという。
本多にも撫順炭坑で電気技師をしていた久野健太郎が手紙を送って抗議した。本多は昭和61年3月、久野にこんな返信を寄せた。
「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」
連載当時は多くの人が存命だったはずだが、本多や朝日が日本側関係者を取材した形跡は見当たらない。
■ ■
田辺の問題提起をきっかけに「万人坑」は改めて関心を集める。元朝日新聞記者、本多勝一による「中国の旅」連載から約20年後のことだった。
中国人労働者を使い捨て、死なせたとの汚名を着せられた当時の関係者らも再び動き出した。
平成3年4月、東京撫順会は朝日新聞に記事の取り消しを申し入れた。
「万人坑は作り話、あるいは著しく事実と相違したものを、事実であるかのように記述してある」
「本多記者は『中国側の言うのをそのまま代弁しただけ』ともいうが、このまま放置すれば、作り話などが『歴史的事実』として確定してしまう」
すでに『大百科事典』(平凡社、昭和60年版)のように本多の「中国の旅」に依拠して「万人坑」を記載した事典が現れていた。
■ ■
南満鉱業社友会も続いた。平成3年4月、本多の記事は「とんでもない虚報」「事実であるがごとき報道をされたままでは、同僚に対して、
また国民に対し申し訳がたたない」として、朝日に「万人坑」報道の関連部分の削除や単行本、文庫本『中国の旅』の廃刊、回収を求めた。
朝日は要求には応じず、3年6月、読者広報室長名で両団体に書面でそれぞれこんな回答を寄せた。
「万人坑については、本多を含め私どもといたしましても、さらに調査を進める必要があると以前から考えています。(中略)この際、東京撫順会の
方とも共同で調査出来れば幸いと存じます」(東京撫順会に)
「本多は『万人坑』など当時の聞き書きについて、こんどは『旅』ではなく、改めて精密な現地取材をすることを考えております」(南満鉱業社友会に)
産経新聞は朝日新聞広報部と本多に対し、その後、取材したかただした。本多は回答しなかった。朝日は「古い話であり、現時点では
回答できることはありません」とした。
裏付け取材もないまま一方の主張のみを報じ、反論に対しては真摯(しんし)に向き合おうとしない。韓国・済州島で女性狩りをしたという吉田清治の虚偽証言の関連記事をはじめとする慰安婦報道では、こうした朝日の姿勢が厳しく批判された。数々の疑問や反証から耳目をそらし、長年非を認めずに虚偽を広め続けたからだ。
吉田の虚偽証言について、いまでは政府さえも「朝日新聞社により事実であるかのように大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社会にも大きな影響を与えた」との見解を示すようになった。
本多と同世代の元朝日新聞記者でジャーナリストの長谷川●(熈のノを取り、巳が己)はこう慨嘆する。
「批判や反論を踏まえず、日本側関係者の取材もしないのは新聞ではない。単なるアジビラだ。慰安婦問題での病理は、前段階として『中国の旅』の連載時にすでにあった」
昭和46年10月6日付の朝日夕刊に掲載された「中国の旅」第2部「万人坑」の初回記事。本多は第1部の連載に非難や疑問が
寄せられたことを紹介した上で「代表的な疑問に、まず答えたいと思います。まず、『今さら、あんなことを掘りかえすなんて』という場合の『今さら』について」と切り出した。
「『今さら』と、この問題にふれまいとする態度は、日本を見つめるアジア諸国に、不信と警戒の色をますます強めさせるだけでなく、『今さら』と考えること自身がみずからの目をおおって、今こそやるべき問題をやらずに逃げていることの現れかもしれません」
今回、40年以上前の連載に対する産経新聞の問題提起に本多や朝日はあるいは「今さら」と思ったかもしれない。だが、「中国の旅」によってゆがめられた歴史の再検証は、朝日が慰安婦問題をめぐる過去の虚偽報道をようやく認めた「今こそやるべき問題」ではないか。(敬称略)
「批判や反論を踏まえず、日本側関係者の取材もしないのは新聞ではない。単なるアジビラだ。慰安婦問題での病理は、前段階として『中国の旅』の連載時にすでにあった」
昭和46年10月6日付の朝日夕刊に掲載された「中国の旅」第2部「万人坑」の初回記事。本多は第1部の連載に非難や疑問が
寄せられたことを紹介した上で「代表的な疑問に、まず答えたいと思います。まず、『今さら、あんなことを掘りかえすなんて』という場合の『今さら』について」と切り出した。
「『今さら』と、この問題にふれまいとする態度は、日本を見つめるアジア諸国に、不信と警戒の色をますます強めさせるだけでなく、『今さら』と考えること自身がみずからの目をおおって、今こそやるべき問題をやらずに逃げていることの現れかもしれません」
今回、40年以上前の連載に対する産経新聞の問題提起に本多や朝日はあるいは「今さら」と思ったかもしれない。だが、「中国の旅」によってゆがめられた歴史の再検証は、朝日が慰安婦問題をめぐる過去の虚偽報道をようやく認めた「今こそやるべき問題」ではないか。(敬称略)
この企画は阿比留瑠比、有元隆志、河崎真澄、田北真樹子、田中一世、原川貴郎が担当しました。
産経ニュース 2016.5.4 09:53
産経ニュース 2016.5.4 09:53
この件では産経が朝日をチェックしてるよね、
つまりメディアとメディアがお互いにチェックしてこそ本来のメディアの姿ですよねえ
しかし、日本ではメディアとメディアが傷を舐めあっててとことん腐りきってしまった
メディアをチェックする「ネット」が登場して
初めてメディアに緊張感が生まれましたね
つまりメディアとメディアがお互いにチェックしてこそ本来のメディアの姿ですよねえ
しかし、日本ではメディアとメディアが傷を舐めあっててとことん腐りきってしまった
メディアをチェックする「ネット」が登場して
初めてメディアに緊張感が生まれましたね
最近の産経マジだよ
朝日は反論すると突っ込まれるから逃げるだけ
朝日は反論すると突っ込まれるから逃げるだけ
<「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉>
開国少将というベンネームの作者は、
外祖父が自分の日で見た南京大虐殺という文章を発表している。
「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか
分からなかった。
逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、
よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。」
外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた
理由ではないだろう。
私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。
彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。
1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、
1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、
日本軍の猛烈な攻撃を、
首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。
しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、
南京城から撤退した。
部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。
その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。
大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。
このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。
誰かが、日本軍が来たぞと叫び、
国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に
列車から降りろと怒鳴った。
誰も従わないので、
指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。
国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に
列車から降りろと怒鳴った。
誰も従わないので、
指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。
兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。
指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、
民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ
と言って、一斉射撃を命じた。
あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。
ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。
国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、
それは日本軍の残虐行為として転嫁された。
外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、
長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。
外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。
全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。
外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。
全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。
外祖父は貧農の出身だが、
国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。
外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。
また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との
美名で呼ばれたかもしれない。
しかし、逃亡する道を選んだ。
そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。
そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。
その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。
南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。
外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。
私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。
だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。
天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」。
<南京大虐殺の捏造はこの様に始まった><従軍慰安婦の捏造はこの様に始まった>
―――――――――――――――――――――――-
<南京大虐殺の捏造はこの様に始まった>
昭和46年8月~12月まで、
本多勝一記者が「中国の旅」の中で、「南京大虐殺」と言う偽の事実を交え連載を始める。
①、朝日新聞は日本はとんでも無い事をしたと日本に広め、
その重圧の中、日中友好を結ぶ事になた。
しかし、この時点では、中国は南京大虐殺を問題視して無かった。
②、その後、1978年から朝日新聞の記事による圧力の中、
日本中学の教科書で、南京大虐殺を教科書に載せることになった。
(この時点では、中国の教科書には、南京大虐殺の記述は一切無かった)
③、中国の教科書に載せられる様になったのは、
朝日新聞記事「中国の旅」の中での「南京大虐殺」が連載されてからの
1979年からなのである。
④、愛国主義教育実施要綱(1994年)が、施行され
南京大虐殺記念館等が中国各地に出来る。
⑤、反日暴動起きる (2005年)
発端は朝日の本多記者と言う事らしい。クリック拡大 ↓
―――――――――――――――――――――――-
<従軍慰安婦の捏造はこの様に始まった>
従軍慰安婦と言う言葉は朝日新聞の
植村隆記者の造語。
彼は「従軍慰安婦強制連行」を嘘の事実を交え面白おかしく平成3年8月連載する。
それまでは、韓国や韓国メディアも従軍慰安婦問題は知らなかった。
宮沢喜一首相が事実を確認しないまま謝ってしまう。(平成3年12月)
河野洋平が、これで手打ちが出来るんではと、根拠資料の無いまま、確認もせず、
強制性を認める発表をしてしまう。
(平成4年1月)
しかし、その事実を裏付ける事実は全く無かった事がわかった。(以下その説明)
①、政府・軍指示文書があるはずだ。→→→→→日本国内、韓国内でも全く無し。
②、加害者の証言→→→→→たった一人の加害者である吉田清治
(偽名、共産党員)の証言は、嘘であった事を本人も認める。
その他、誰も加害者はいない。
よって無し。
③、目撃者証言→→→→→→裏づけのあるものは全く無し。
④、日韓基本条約締結
(昭和40年)
全ての諸問題をテーブルにのせ、話し合った。→→→→→慰安婦の問題は全く無し。
従軍慰安婦問題の発端は植村隆記者らしい。クリック拡大 ↓
【速報】朝日新聞記者、ついに【 南京大虐殺 】も【 捏造 】と認める!緊急拡散希望《本多勝一氏が『週刊新潮』に「南京大虐殺」派が使っていた象徴的写真を捏造写真と認めました》
【中国崩壊】南京大虐殺捏造の実態が中国でも報道キタ━━━━°∀°━━━━!!!