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ケント・ギルバート iRONNA掲載記事「9条こそ憲法違反である」(No English Available)

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2016-01-08 21:15:19

iRONNA掲載記事「9条こそ憲法違反である」(No English Available)

テーマ:最新情報
総合オピニオンサイト『iRONNA(いろんな)』に、月刊正論12月号に寄稿した、私の記事が掲載されました。

ケント・ギルバートが断言 9条こそ憲法違反である
『月刊正論』 2015年12月号 
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ケント・ギルバートが断言
9条こそ憲法違反である


『月刊正論』 2015年12月号


ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士、タレント)

 日本国憲法はおかしいと多くの方が指摘します。日本語がおかしい、短期間に日本を無視して出来た押しつけ憲法だ、寄せ集め憲法、コピペ憲法、コラージュ憲法…と色々と評されます。どれも正しいと思いますが、完成した憲法条文の中に、明らかにおかしい箇所はそう多くありません。確かにおかしいが、世界の憲法に同じような規定があったりする。定め方、手続きに問題はあっても、出来上がった条文自体はそう悪いものではない。日本国憲法の規定を世界各国の憲法と比べても、おおむね遜色はない、ほとんどは妥当な規定が並んでいると私は考えています。

 ただし、致命的におかしい点が二つある。まず元首の規定がないこと。どんな組織でも代表者は必要です。国家でも当然です。代表者が明確でなければ、相手にも迷惑が掛かります。当時の事情は知っていますが、天皇が元首だとは憲法に書かなかった。明らかに元首なのに、「象徴」という言葉で誤魔化したわけです。

 そして、もうひとつは憲法9条です。何がおかしいかといえば、軍隊を否定している点に尽きます。

米国の憲法制定の過程


 そもそも憲法学は英国から始まっています。英国に文章化された「憲法典」が無いことはご存じだと思います。「憲法」がないのではありません。憲法の内容は慣習法や判例から自ずと導き出されるので、憲法の文章化にこだわる必要がないのです。
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 米国は憲法を文章化しました。合衆国という新しい試みについて、連邦政府の権限を明文で規定する必要があったからです。北米大陸にあった十三の植民地が、英国から独立しました。それぞれが英国の不文憲法を受け継ぎ、独立国家のような状態でした。アメリカ合衆国ができたはずなのに、これではちゃんと国の機能が果たせない。各州の決まりはバラバラだし、州の境界線をまたがる貿易に関税を取ったり、連邦政府に税金を払わなかったり。独立戦争の時は結束したけど戦争が終わると、そうはいかない。それで統合機能を強化して連邦政府をもう少し強くしよう、すべての権限は原則として州に帰属するが、一部の権限は、各州から国を束ねる連邦政府に譲ろうということになった。これが最初の合衆国憲法です。よく読んでみると、それだけなんです。

 何を中央に譲ったか。外交と国防、それに郵便、州の境界をまたがる貿易のルールなどです。郵便は全国規模でやる必要がある。最初の憲法を見ると郵便は連邦政府の仕事だときっちり書いてあります。十年ごとの国勢調査も国の仕事になりました。

州に教育の権限を置く米国


 教育などの権限は今でも州にあります。道路も、国道は確かにありますが、国はお金を出すけど整備は州がやっているし、インターステートハイウェイという高速道路も、連邦政府の法律に基づいていますが、実際の建設を行うのは州です。

 カーター政権の時、連邦政府に教育省が出来ましたが、教育内容を管理するためではなく、国が出す補助金の管理のためです。国自体が各州の教育について発言する権限は、今でもあまり強くないのです。

 米国の学校では朝、必ず星条旗に宣誓しますが、これも州に委ねられています。テキサス親父ことトニー・マラーノ氏は国歌だけでなく、テキサス州歌も斉唱していたそうです。私の育ったユタ州は国歌だけでしたが…。

 余談ですが、米国国歌「星条旗」の歌詞は戦場の風景を描いています。一晩戦闘が続いて、朝起きたら星条旗がまだ健在だったという話。感動的ですが、「君が代」とは対照的な、戦争の勇ましい歌です。四番までありますが、三番は最初から最後まで英国の揶揄と批判です。

《戦争による破壊と混乱を
自慢げに断言した奴等は何処へ
家も国もこれ以上我々を見捨てはしない
彼等の邪悪な足跡は
彼等自らの血であがなわれたのだ》

 三番はもう今では歌わないです。私たちも、学校などで国歌斉唱する時は、常に一番だけでした。

 合衆国憲法に国歌の規定はありません。習慣的に使われていたこの歌が法的に国歌として正式採用されたのは、かなりあとの1931年3月3日の国会決議可決に基づきます。国旗も州が加わるごとに変わって来ました。私がまだ幼稚園の時に、アラスカ州とハワイ州が増えて国旗が変わったことはよく覚えています。幼稚園でも、必ず国旗が教室に掲げられていました。

集団的自衛権は憲法以前の話


 私は大学で憲法を勉強しましたが、憲法を学ぶことはとりもなおさずアメリカの歩みを紐解いていくことに他ならない。憲法は国家の基盤ですから当然といえば当然ですが、黒人の問題にしても、結婚のあり方にしても国論を左右する問題は悉く憲法を直撃する。憲法というのはそれだけ重要なものなのです。

 話を日本国憲法に戻します。憲法9条のどこが致命的におかしいのか。私は憲法9条こそが憲法違反だと考えているので、理由を説明します。

 そもそも国家の自衛権というものは個別的、集団的という区別なく、国際法で認められています。話をわかりやすくするために、まず個人レベルの正当防衛を考えます。

 個別的と集団的を分けて考えたがる傾向がありますが、刑法上、両者は全く区別されておらず、一体のものです。刑法36条1項には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は罰しない」とあります。早い話、自分の子供が殺されそうな場面を想像してください。自分が助けなければ子供は殺されてしまう。犯人に立ち向かうのは当然です。その結果、仮に犯人の命を奪っても、過剰防衛でない限りは罰しない。それが正当防衛の趣旨です。この時、自分が守ったのは子供の権利(生命)なので、正当防衛権の中で個別的ではなく集団的な防衛権を行使したことになる。それだけの話です。

 次に、国家レベルの話ですが、個別的のみならず集団的自衛権も、国際法で当然に認められています。

 国連憲章51条には「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない…」とあります。つまり自衛権は、憲法以前の固有の権利です。憲法に規定があろうがなかろうが、自国の領土や国民を守る自衛権を持たない国はありません。そして先に示したとおり、個別的と集団的という区別に本来大した意味はなく、自衛を目的とした武力行使も、国の当然の権利です。

 日本政府も、集団的自衛権を保有している事実を否定したことは過去に一度もありません。憲法上、禁じられていると言ったのは集団的自衛権の「行使」に限っています。権利は持っているが、憲法上、行使は許されないと解釈してきたのです。

 しかし、行使が許されない権利というのはとてもおかしな話です。憲法以前の話としてあまねく認められている権利について、その行使を憲法が縛っている。それはとてもいびつであり、無理やりな理屈です。

国民を見殺しにする9条の問題点


 日本国憲法前文の、次の一文をみて下さい。

《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》

 皆さんがよく引用する箇所です。さて、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を、果たして誰が信頼できるのでしょうか。軍拡著しいPRC(中華人民共和国)や、核開発を行い、ミサイルを再三日本に向けて発射してきた北朝鮮の「公正と信義に信頼して」、日本人の安全と生存を保持することなど不可能です。正に現行憲法の非現実的な一面の象徴的な一文だと批判される箇所です。

 私もこの箇所に注目していますが、従来とは少し違う解釈を示したいと思います。前文の法的な地位については様々な学説がありますが、私は前文の方が各条文よりも上位にあるという学説を支持します。日本政府は、前文には法的拘束力がないという政府見解を持っているようですが、少なくとも憲法の全ての条文を総括し、そのエッセンスを凝縮したものが前文であるということに争いはないでしょう。それならば、前文と各条文に矛盾や齟齬があることは、本来は許されないはずです。

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 この文章には「平和を愛する諸国民」とか「公正と正義に信頼して」などとありますが、そもそも平和というのは、法律概念でも法律的な用語でもありません。あれこれ修飾が加えられてはいますが、この一文の主語は日本国民です。では述語は何か。当然、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」です。日本国民は自分の安全を確保し生存を保持しようと決意している、国民が国民を守ると決意しているのです。

 乱暴な読み方だという人もいるかもしれません。あくまでここに書いてあるのは「武力によらず生存を保持する決意ではないか?」と言いたい人もいるでしょう。

 しかし、先ほども述べたように国際法に照らせば、自衛のための武力行使は(個別的・集団的を問わず)憲法以前の話として認められているのです。国に課せられた最低限の責任は、外敵の侵攻から国民の生命、財産を守ることです。その為の有効な手段を憲法が縛った結果、国民が不利益を被るのはおかしな話です。

 このような前提で前文を読んだうえで9条の条文を見てください。明らかに矛盾するはずです。

《第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない》

 日本人が外国で誘拐されたとしましょう。まず、前文から行くと、日本国は解決のための手段を用意し、解決を図らなければならない。

 ところが、この9条のためにどれだけの日本人の命が見捨てられ見殺しにされたか。海外に駐在したり活動している日本人が現地で襲われ、あるいは拉致され、生命の危機に瀕する事件が頻発しています。にもかかわらずそのたびに何もできない。

 逆に日本は、「一人の生命は地球より重い」と、愚にも付かないキレイごとで身代金を払った恥ずべき過去もある。身代金を払う国は、次もまた狙われます。もし国が、国民の生命と安全を真剣に考えるのであれば、人質奪還作戦を敢行すべきです。その足かせとなる9条こそが、憲法違反だと私は言いたいのです。

 それに日本国憲法は13条で「すべて国民は、個人として尊重される」と、個人の尊厳を定めています。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」ともあり、幸福追求権と呼ばれています。

 25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあって国の責務が定められています。主として福祉政策の充実がうたわれている条文です。

 しかし、そもそも国民の生命を守れなかったら、個人の尊重、個人の尊厳などあり得るのでしょうか。個人を尊重するには、まずもって生命と安全を守ることが大前提です。

 13条の幸福追求権は、国民の命が守られてはじめて成り立つ話ですし、国民の生命、財産を守ることは、健康で文化的な最低限度の生活を営むための大前提です。25条は生存権と呼ばれますが、9条を文言通りに守るならば、国は生存権の保障どころか、国民の生命を見捨てることを強いられます。だから、北朝鮮拉致被害者を取り戻せないのです。

 9条の内容は前文、国際法に矛盾するだけでなく、他の複数の条文とも噛み合わず、日本国民の人権を侵害している。だから私は、9条こそが憲法違反だと言っています。

以下略

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ケント・ギルバート氏 「9条自体が憲法違反」国際法に照らし指摘




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