ケント・ギルバート(63)
「日本の『左』は感情論ばかり」
無責任な自称保守は極左のこと笑えない
〈歴史問題などをめぐって保守的な発言をする米国人として、その言動が幅広い支持を集めている。以前から保守的な考えの持ち主だった?〉
僕はもともと世間でいう「保守」ですよ。僕が最近、保守になったと思う人は、日曜朝のTBSの報道番組「サンデーモーニング」に出演していた頃の僕を知らないのかな。いまの番組は左の人しかいないけどね。僕は番組がスタートした昭和62年から10年間出演しました。初期のころの出演者には総務相になった高市早苗さんや、政治学者のペマ・ギャルポさん、元バレーボール全日本代表選手の三屋裕子さんたちもいて、バランスがとれていました。
ところが、湾岸戦争(平成2年)のとき、作家の瀬戸内寂聴さんが出演しました。寂聴さんが「クウェートで戦争しちゃだめだ」というから「イラクがクウェートを侵攻したのに、クウェートの人はどうすればいいんですか?」と聞いたら、彼女は「我慢すればいい。東欧の人もずっと我慢したらソ連から解放されたでしょ」っていうんですよ(笑)。
〈保守論陣の一翼を担うようになったと認識され始めたのは、昨年8月に朝日新聞が慰安婦問題に関する報道で誤報を認めてから〉
友人の中には「慰安婦の話は嘘だ」という人もいれば「日本政府が認めている」という人もいました。私は後者寄りでした。それほど関心がなかったんです。だけど、朝日新聞が誤報を認めたと聞いて考えが変わりました。なぜなら、日本国内だけがだまされていたのなら国内問題ですが、米紙ニューヨーク・タイムズなども掲載し、国連や米下院まで大騒ぎした話なんですから、すでに大きな国際問題ですよ。朝日の報道で日本の国益が著しく失われた。これは発言しないとだめだなと思って、日本語と英語で自分のブログに書きました。
僕はメディアに出る側の人間だけど、メディアに対する不満もあります。それは嘘と偏向とタブーが多いこと。大手メディアの情報だからとうのみにしたり、日本は平和だからと油断したりしている人は、この問題の深刻さに気づいていない。そういう不満や、これは絶対に違うよということを言い始めたら、世間がビックリしたみたいですね。
僕は保守といわれるけど、自分が真ん中、中道だと思っています。左でもなければ右でもない。真実を知りたいだけです。正しいファクト(事実)に基づいて判断して、結果が左なら左、右なら右で構わないんですよ。ただ、日本の左は感情論ばかりで事実の裏付けがないから支持できないだけです。
歴史問題で発言するようになって、いろんな人たちとの交流が始まりましたが、保守だから良いというわけでもないし、左だから悪いわけでもありません。左か右かではなく、メディアリテラシーの問題です。偽情報を確かめもせず、脊髄反射で拡散する無責任な自称「保守」は極左のことを笑えません。
教会が霊感で決める宣教師の派遣国
〈モルモン教徒の両親のもとに6人きょうだいの長男として生まれた〉
変わった少年だったと思います。4歳半で叔母のピアノを弾き始めて、7歳でレッスンを受けるようになり、9歳の時には先生が「私より上手だからほかの先生をさがしなさい」とお手上げ宣言。腕前がピークに達したのは中学1年生ですかね。ただ、ピアノは男の仲間には受けないんですよ。といっても運動は興味がなかった。運動会はいつも参加賞でしたね。でも、僕はメダルを取った人について「あいつは足が速くてうらやましいけど、僕は成績が抜群だからいいか。成績が悪いあいつの足の速さは特技だから喜んであげよう」と冷静に考える人間なんですよ。それぞれに輝くものがあっていいということを小学生の頃から納得していました。
とはいえ、わが家には常に最高の結果を期待されているような圧迫感がありました。でも、両親から「勉強しなさい」などといわれたことはありません。100点を取らないと気がすまなかったのは僕の性格でしょう。成績は常にトップで、ユタ州プロボにあるブリガムヤング大学から全額奨学金をもらって入学しました。
モルモン教徒の男性は19歳(いまは18歳)になれば国内・海外伝道に出ることができます。当時はベトナム戦争の真っ最中。徴兵制があったので登録しましたが、大学在学者は免除されました。仮に徴兵されたら、国のために命をささげなければいけない覚悟はあったけど、自分が戦っているイメージがわかなかったし、何より伝道を経験したかった。戦時中だったから教会も世論に配慮して各地区で毎年2人しか宣教師をださないという自主規制を設けました。僕の地区の希望者は20人もいて取り合いになりましたが、偶然にも枠が1つ残っていました。
派遣先は自分では選べません。教会が霊感(インスピレーション)で決定するはずですが、この世に存在しない言語の試験も受けます。文法や文字もあって、それらを覚えて受験するのです。外国語の習得能力をみるためだと思いますよ。成績は良かったようですね。3週間後、派遣先は日本という通知が来ました。「日本か。どこだっけ?」というぐらいの認識でしたね。日本は言葉の面でも難しい国とされていたので、優秀な人が派遣されていました。
日本のことは全く知らなかったけど、近くに大阪で伝道をした人がいて、僕と両親に和食を作ってくれました。電気鍋で肉を焼くんですよ。日本人が肉も食べることを初めて知りました。そして肉の入った鍋に砂糖を入れるんです。すき焼きです。米国では生卵を食べませんが肉をつけて食べました。おいしかった。この日本好きの彼が「日本と米国はほぼ逆。米国とは違うことを楽しんで、不思議だねという態度で臨んだら面白いよ」と素晴らしい助言をくれました。実際、日本は電気のスイッチ、のこぎりの使い方、雑巾の絞り方など何でも逆でしたね。
就職先なく電話ボックスで涙
〈日本での伝道の場は九州だった〉
昭和46年12月17日夜に羽田空港経由で福岡市に着きました。寒かった。宣教師のところで入った大きなお風呂がとても気持ち良くて、これがきっかけで“温泉狂”になりました。翌日からは早速、伝道のため天神に出て、日本語で「こんにちは、お元気ですか」と道行く人たちに話しかけました。でも、誰も教科書通りの答えを返してくれないから意味がわからないんですよ。日本に来る前にハワイで2カ月の集中講義を受けましたが、徹底的に覚えたのはしゃべることだけでしたからね。やがて相手が何を言っているのかわかるようになりましたが、日本ではいつも辞典をポケットに入れていましたね。山口県柳井市や長崎県佐世保市でも伝道したので、方言も自然に身についたようです。
ちなみに、モルモン教の宣教師はヘルメットをかぶって自転車に乗っていますが、着用のルールを作ったのは僕なんです。平成2年頃です。このルールのおかげで新潟県での伝道中に事故にあった次男は命を失わずにすみました。
2年間の伝道を終え、復学して日本語・日本文化と国際関係論を専攻しました。大学卒業後はブリガムヤング大学(BYU)の法科大学院に進みました。ハーバード大やコロンビア大などにも合格しましたが、奨学金を全額出してくれたのはBYUだけでした。並行して経営学修士(MBA)の勉強も行いつつ、大学では日本語を教えていたので、毎日忙しかったですね。
大学院2年の夏は東京青山法律事務所で研修しました。このとき、就労ビザの発給が遅れて、本来なら4カ月の就労期間が3カ月になってしまいました。日本弁護士連合会がビザが下りないようにいたずらしたんじゃないかと思っているんですよ。外国人弁護士においしい国際業務を奪われると思ったんでしょうね。日弁連は非関税障壁の一つだと思いました(笑)。
就職は米西海岸にある国際的な弁護士事務所を希望していましたが、大手はハーバード大などの有名大からしか採用しないんです。だから面接してもらうのも大変でした。米国に入ってくる日本企業を相手に仕事をしたいと志望動機を説明したけど、僕の履歴書を見て「あなたは日本に行きたいだけでしょ」って。どこも採用してくれないので、サンフランシスコの電話ボックスに入って泣きましたね。僕を認めてもらえなかった…。将来のことを考えて勉強しなかったから、就職の場面で現実にぶちあたっちゃいましたね。ところが、駄目もとで研修の時の上司に電話したら「いつから来られるの?」といわれたんです。一転して就職が決まりました。
就職するために昭和55年8月に東京に来ました。3~5年の経験を積んでから米国で日本企業を相手にする弁護士になる計画でした。当時は日本で法律業務の経験があり、日本語を話す米国人はほとんどいませんでしたからね。でも、就職3年目にクイズ番組「世界まるごとHOWマッチ」に出るようになって、法律の道から外れはじめました。
クイズ番組でTVの常連に
〈東京在住の外国人で構成する劇団の公演に出演したことがきっかけで、テレビへと活動の幅が広がっていく〉
昭和58年の元旦に、劇団メンバーの友達から連絡があって、その月の31日に開催される公演で代役をやってくれと頼まれました。妻に相談したら「就職してから面白いことをやっていないからいいじゃない」といわれたので引き受けたんです。それが外国人エキストラをNHKに紹介するプロダクションの社長の目に留まり、それからコンピューターの取り扱い説明のビデオに出演したり、竹下景子さんが出演する松本清張の「ゼロの焦点」にちょい役で出演したりしました。ちょい役は胴体だけ。「これで僕のテレビ生活は終わりだな」と思っていたら、クイズ番組のオファーがきたんです。それが「世界まるごとHOWマッチ」でした。初登場でいきなり「ニアピン賞(正解に近い答え)」を取って、それからレギュラーになりました。
「HOWマッチ」では、僕がニアピン賞を9本取って世界一周獲得まであと一歩になると、決まって美術の問題が出題されるんですよ。美術は僕の弱点なんです。あるとき、ポール・ゴーギャンの作品の質問が出たときに「まったく上手だと思わない」といって、すごく安い値段をつけたんです。司会者の大橋巨泉さんが「ゴーギャンが誰だか知ってるの?」って。知りませんよ。番組側も美術の問題を出せば、僕の答えが正解から2桁以上外れることをわかっているから、わざと出題して僕を振り落としていたんですよ。いじめですよね(笑)。
あの番組のおかげで知名度があがって、CM、舞台、講演、出版などの話がたくさん来ていろいろやりました。やらなかったのはポルノと映画評論家くらいかな(笑)。法律事務所はあきれて「どちらか選べ」と僕に迫りました。法律事務所の給料と芸能界のギャラは雲泥の差。CM1本で法律事務所の年収を上回っていたんですよ。その翌日に辞意を伝えたら「信じられない」って驚かれました。2年間は嘱託で残りましたけどね。
お金はたまりました。芸能活動を始めて2年目に1500万円を現金で区役所に持っていって納税したほどです。さすがに節税のために不動産投資を始めました。いまもユタ州で不動産を持っていますが、その収入は老後の年金です。
昭和60年代にはメキシコ料理店「タコ・タイム」を始めましたが、忙しすぎて事業も私生活も健康も危うくなる可能性を感じたので、後に合弁相手に自分の持ち分を譲渡しました。何かをするにも限度があることを学びました。バブルの頃は「ケント・ギルバート外語学院」もやりましたが、バブルがはじければ信販会社が生徒にお金を貸さなくなって授業料が取れなくなると考え、新規の生徒募集をやめて半年後に自然消滅させました。生徒も会社も損をしませんでした。事業は始める時期も大事だけど、辞める時期も大事なんです。
人の役に立てればいい
〈父はいまでも特別な存在だ〉
父は地元のユタ州で公認会計士をやっていました。僕がユタ州で不動産を購入しようとしたとき、父が保証するといってくれましたが、銀行は僕の収入源が日本だから借り入れを認めないと言うんです。そこの若い銀行員が父に向かって「あなたが保証するといってもね…」という態度を取ったら、父は怒って「私は地元で30年以上も公認会計士をやっている。街に出て私が約束を破ったことがあると証言できるやつを見つけてこい。絶対に見つけられないから!」と言い放ったんですよ。銀行員はびびっちゃって、お金を貸してくれました。そんなせりふを言える人間になりたいと思いましたね。昨年85歳で亡くなりましたが、人生を全うしました。
〈妻は中学1年生の時の同級生〉
家が近所で、あの年頃にとって最大の行事であるジュニア・プロム(高校2年生のダンスパーティー)には彼女と参加しました。大学の時は別の女性と交際しましたが、ずっと彼女のことを気にしていました。昭和50年7月に沖縄国際海洋博覧会のスタッフとして沖縄に滞在した後、訪れた京都で彼女の好きなスプーンのセットを買ったんです。それを渡すために会いに行ったことがきっかけとなって交際を始め、25歳のときに結婚しました。僕は大学院2年生で彼女は高校の国語の先生でした。
妻はいまはユタに住んでいるけど日本によく来るし、僕も行きます。長男(37)はカリフォルニア州サクラメントで弁護士、次男(35)は東京で法律事務所に勤めています。三男(29)はアラスカ州でコンピューターシステムを開発しています。子供は先に生まれた僕に育てる義務があるだけで、存在的には僕と同等だと思うんです。でも、友達のような関係ではありません。子供に関する重要事項は妻の計らいで僕が決めるようになっていて父親の僕を立ててくれます。うちの女房は賢いと思いますよ。
〈宣教師として初めて日本の土を踏んでから40年以上たつ〉
最初は日本に来たくて来たわけではありません。モルモン教会の霊感(インスピレーション)によってきたんだけど、それには理由があると思いますね。日本に長く関わっている米国人の友達は「ここには自分がやることが残っている。それを感じなくなったら帰ろう」と言っていました。僕もやることがあるんですよ。結果論になるけど、僕が日本でやってきた仕事は日本人が気づいていない良いことを紹介したり、指摘したりすることだったと思います。最初は宗教の紹介で来日し、法律家として外国と日本の間の調整をやりました。最近の言論活動も同じです。いろんな意味で人の役に立てればいいなと思うんですよ。だから「いつ帰るの?」と聞かれるとちょっとムッとします。東京の家も持ち家なので、どこに帰れと言うんですかね。 (聞き手 田北真樹子)
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昭和27(1952)年、米国アイダホ州生まれ、ユタ州育ち。46年、大学在学中に19歳で初来日。55年、大学院を修了して法学博士号、経営学修士号、弁護士資格を取得後、東京の大手国際法律事務所に就職。58年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。近年は企業経営や講演活動、執筆などを行う。近著に「まだGHQの洗脳に縛られている日本人」(PHP研究所)、「素晴らしい国・日本に告ぐ」(青林堂)、「日本の自立」(イースト・プレス)などがある。
=11月掲載記事を再掲載