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せがれご覧、あの日本人の兵隊さんを。お前も大きくなったら人が見なくても働くような人間になれ。母親の言いつけを守って、今日私は大統領になれた。真実の物語・・・ウズベクスタン

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せがれご覧
あの日本人の兵隊さんを
お前も大きくなったら
人が見なくても働くような人間になれ

母親の言いつけを守って、今日私は大統領になれた。
真実の物語・・・ウズベクスタン



当時、ウズベクスタンの大統領はこう言ったそうです。

 「我々は日本と戦争をした覚えはない。だから捕虜と言ってはならない。」

そして、後世の大統領も、こう言いました。


 「子供の時、毎週末、日本人捕虜収容所に連れて行かれた」。ご存知かと思いますが、45年から46年にかけて、シベリアからウズベキスタンに2万5千人捕虜が移送されております。そのことを言っておられるんだと思いますが、麻生太郎談

「その捕虜収容所に連れて行かれた。母親が私に言った台詞は毎週末同じだった。
『せがれ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。人が見なくても働く。お前も大きくなったら、必ず人が見なくても働くような人間になれ。』 
 おかげで母親の言いつけを守って、今日私は大統領になれた。」


     国立ナポイ劇場
イメージ 1


実は、以下の記事は、昨年11月26日にアップさせていただいた記事なのですが、だいじな補足事項がありましたので、再掲します。

実はこの件に関して、以前紹介した記事の中で、ウズベクスタンの「タケシント市にある日本人墓地は、元抑留者たちの募金活動やウズベキスタン政府の協力によって整備され、日本から送られたサクラの苗木1300本も植樹されました。」

と書いた部分なのですが、実は、そこにも忘れてはならない物語があった。

そのことも含めて、この件に関して、記事を再度アップさせていただきます。

~~~~~~~~~~~
中東に近いロシアに、ウズベクスタンという国があります。
「スタン」というのは、「国」という意味です。

ウズベクスタンは、古代からシルクロードの中継地として発展したオアシス都市として栄えたところで、13世紀にはモンゴル帝国に征服されるけれど、14世紀になるとティムール王朝が興って、中央アジアから西アジアに至る広大な帝国を築き上げた歴史を持ちます。

そのウズベキスタンの首都都タシケント市に“国立ナポイ劇場”(写真)があります。
この建物は、戦後間もない昭和23(1948)年に、約2年の月日をかけて完成したものです。

その後、タシケント市には、二度、大地震が起こりました。
地震で、市内の建造物は、そのほとんどが倒壊しています。
ところが、二度の大地震に、ナポイ劇場はビクともしなかった。

タケシントのウズベク人たちは、劇場を眺めて次のように語ってくださっているそうです。
「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。素晴らしい民族だ」

そうです。この建物は日本人のシベリア抑留者が造ったのです。

同じ抑留者でも、ドイツ人たちは、ロシア兵に反抗もするし、自分たちの権利を主張しました。
ロシア兵たちもドイツ人たちは、同じ白人種であることから、あるていど大目に見ていたといいます。
ところが日本人は黄色人種です。反抗したら殴られる。殺される。ひどい差別を受けた。
それでも日本人たちは、威張らず、文句も言わず、黙々と作業をした。
その姿に、市内の作業現場では、タシケント市民は、ソ連と戦争をした日本人に、かえって尊敬と畏敬感をいだいたといいます。

ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当しました。
そのうち60人が、建築途中で亡くなられています。10人にひとりが亡くなったのです。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみてもあきらかであろうと思います。

使役させられた日本人たちの様子がどうであったのかは、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。

裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている男の肛門まで、上から見えた。
ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた。
建設工事の途中、あまりの労苦に耐えかねたひとりの日本人が、クレーンの先端まで駆け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した等々、涙をさそう逸話が数多く紹介されています。

シベリアに抑留された日本人は65万人です。
このうち、2万5千人が、このタシケント市内の13箇所の収容所に入れられました。

 ソース: ねずさんのひとりごとより 
 
シベリア抑留者というのは、ただソ連によって強制連行され、抑留させられた、というわけではありません。
シベリアに連行された日本人は、旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなどです。
要するに技術者集団です。

ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡しました。

そして、日本人技術者たちを強制連行してソ連のインフラ整備のために無料で使役しています。

65万人の技術者集団です。
彼らを単に抑留するだけなら、食費やら施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
65万人に給料を払うなら、たとえば今の相場で月30万円の給料を出すとなれば、それだけで月に2千億円、年間2兆4千億円の費用がかかる。

それを、給料無料、ろくな食事も与えないで、日本人の持つ高い技術と能力、旧満州にあった機械や設備をまるごと持ち帰って、ソ連の建国のために使役した。

道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。

旧ソ連は、莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使ってソ連全土で展開したのです。

ソビエト社会主義連邦共和国は、かつて人類の理想郷のように言われました。
人々は働かなくても、国家から給料がもらえます。

人々が働かなくても、町のインフラは次々と整い、道路ができ、鉄道がひかれ、建物ができる。
あらゆる工業生産物も、生まれる。農業も振興され、食料生産高も飛躍的に向上する。
人々が「働かなくても」です。

労働者階級は、ほんのちょっと仕事をするまねごとをするだけでよい。
クレムリンが、計画経済○か年計画を策定するだけで、国民はなにもしなくてもみるみる経済が成長し、豊かになる。
国家の力で、インフラは整備され、工業・農業の生産高は飛躍的に向上する。
これぞ理想郷。これぞ人類の夢の社会・・・。

ところが誰も生産活動に従事しないで、労働成果物だけが生まれるわけがありません。
では、いったい誰が労働していたのか。

それが、シベリア抑留者達です。
なかでも日本人は良く働いた。

資材は、満洲からのお持ち帰り品です。
足りないものはない。人もモノも全部揃っている。しかも労働力を使うために必要な賃金(カネ)は、栄養失調寸前の申し訳程度の食糧支給だけ。犯罪者として抑留しているのですから、もちろん給料なんてない。

ちなみにいまでもロシアに残る社会インフラで、ちゃんと稼動している施設は、
ほぼ日本人抑留者が造ったか、
ソ連以前の帝政ロシア時代の建造物かどちらかです。
旧ソ連時代にできたものは、あまり多くない。あっても陳腐化して使い物にならない。

要するにソ連は、人だけでなく、モノと技術を一緒にソ連に運んだのです。
そして日本人を奴隷のように使役し、モスクワの町やらイルクーツクの街並み、
カザフやウズベキの街や道路、発電所、建築物等を作らせた。

       ウズベキスタン

イメージ 2


ウズベキスタンのタケシント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。

運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかされ、
過酷な気候条件と厳しい収容所生活で、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなられています。

しかし、彼らが造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとなっている。
 
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタンの人たちの誇りとさえなっている。

ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。

日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。

中山恭子元内閣特命大臣がウズベキスタンに大使として赴任したのは、平成11(1999)年のことです。
いまも国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。
その元監督は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本兵抑留者たちの思い出話を、
中山恭子大使に涙ながらに語った。

苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わないどころか、明るい笑顔さえあった日本人。
昨日、具合悪そうだったけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていない。
どうしたのかというと、昨夜栄養失調で死んだという。
 
それほどまでに過酷な情況にあってなお、きちんとした仕事をしてくれた日本人。

だから、いまでもウズベキスタンの母たちは子供に
「日本人のようになりなさい」と教えているといいます。

ウズベキの人たちは、当時抑留されていた日本人たちの姿を見て、
「日本人の捕虜は正々堂々としていた。ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだのです。

日本人墓地があります。
細い木で組んだ粗末な十字架が、そこにいくつも並んでいる。

聞くと、旧ソ連時代、日本人の墓など作ってはならない、墓はあばいて、遺体は捨てろ、という命令もあったのだそうです。

それでも、ウズベクの人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれた。
それは、日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベクの人々の生活をささえてくれてることへの、せめてもの恩返しだったのだといいます。

実は、中山大使赴任の三年前の平成8(1996)年、ソ連崩壊で、独立したウズベキスタンでは、
大統領のカリモフ氏が自ら進んで、
壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げてくれています。

そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
 
「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

ナポイ劇場正面に掲げられたプレート
イメージ 3













ひたむきに努力をし、異国の地で果てた日本人。

この報せを受けた中山恭子大使の夫・中山成彬元国土交通大臣は、みんなの力で、ウズベクの日本人墓地の整備をしようと、呼びかけます。

そして宮崎の事務所を拠点にして、元抑留者や応援者たちに声をかけ、寄付金を募った。
寄付は、宮崎県内から半分、県外から半分が集まります。

そして中山夫妻は、ウズベクに行き、このお金でお墓の整備をと、申し出ます。
 
すると、ウズベクの大統領は、これを拒否した。

「亡くなられた日本人に、わたしたちは心から感謝しているのです。このお金は受け取れません。
わたしたちで、日本人のお墓の整備をさせてください。」

そしてウズベクの人々は、日本人墓地を、美しい公園墓地にし、日本人を顕彰します。

中山成彬ご夫妻は、集めた寄付金で、それならウズベクの学校に教育機材をご提供しましょうと申し出ます。
そしてパソコンや教材などを買いそろえ、寄贈した。
これは喜んでウズベクの人々が受け取ってくれます。

中山成彬先生
イメージ 4











さらに残った費用で、日本人墓地と、ウズベクの中央公園に桜の木を贈ろうと話します。

きっと生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、
せめて、日本の桜を毎年、ずっと見せてあげたい。

そして中山成彬氏は、日本さくらの会に交渉し、日本から桜を、ウズベクに寄贈します。

ところが、桜の木は弱酸性の土でないと育ちません。
ウズベクの土はアルカリ性です。
これでは桜が枯れてしまう。

そこで日本から弱酸性の土も一緒に運び込むことなった。
いま、ウズベクの日本人墓地と、中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。

ちなみに、あまりにも桜が美しいことから、「桜どろぼう」が出た。
桜の木を根こそぎ持って行ってしまう。
ウズベクでは、そのための対抗策として、
日本から寄贈された桜を守るために、なんと専門の「さくら番」を雇い、桜の木の保護をしてくれました。いまでもずっとです。

シベリア抑留者の悲劇。
その悲劇の中でも笑顔を失わず、立派な仕事を残した日本人。

祖国に帰れなかった彼らのために、お墓の整備や桜の寄贈を呼び掛け、これに応じてくださった心優しい日本人。

その心を大切にするために、1年365日、桜番を雇い、警護までしてくれているウズベクの人々の誠意。
本当の外交と言うものは、虚偽の捏造にあらず。
こういう人と人との真心のつながりこそが、真実の友好を結ぶものであると思うのですが、みなさん、いかがでしょうか。


ウズベキスタン中央銀行副総裁アブドマナポフ氏は子供の頃、気の毒に思い、
日本兵に食料(ナンなど)を差し入れた。
すると数日後にその場所には精巧に作られた手作りの玩具が置かれていた。
 
ソース: http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-797.html

麻生太郎談
 リモフという大統領がおられるんですが、1997年だったと思いますが、日本の閣僚として初めてウズベキスタンという国に行きました。大統領と接見があって、我々同友会から数十人同行されたと記憶します。

 「子供の時、毎週末、日本人捕虜収容所に連れて行かれた」。ご存知かと思いますが、45年から46年にかけて、シベリアからウズベキスタンに2万5千人捕虜が移送されております。そのことを言っておられるんだと思いますが、


「その捕虜収容所に連れて行かれた。母親が私に言った台詞は毎週末同じだった。
『せがれ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。人が見なくても働く。お前も大きくなったら、必ず人が見なくても働くような人間になれ。』 
 おかげで母親の言いつけを守って、今日私は大統領になれた。」



「せがれ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。」


http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-entry-1234.html

 3.11を期に涙もろくなったなぁと感じることが多いのだが、いくら涙もろくなっても、国会答弁でそういう状況になることは滅多にない。
 国会答弁というのは、「国会答弁みたいな言い方するな」などというように、本音をさらけ出さず、言葉を選びながら無難な対応をすること揶揄するようなことが多く、感動とは縁遠いものである。

 しかし、今月13日に、中山恭子先生の質問に答えた麻生副総理の答弁には、鼻の奥がツーンとするような感覚を覚えた。
12日のエントリーに書いたナヴォイ劇場の件である。

 恐らくこのやり取りについては、事前の質問通告がなかったと思われる。
 指名で発言を求められた麻生副総理は、中山恭子先生の質問の意図を、目を瞑りながら探ろうとしているようだった。

 そもそもこの日の中山先生の質問時間は、僅か13分。質問は1分も無駄にしたくなかったはずだ。保守政治家同士の以心伝心とでもいおうか、恭子先生の意図は明確に伝わった。
 というより、答弁は恭子先生の想像を超えたものだったかもしれない。

5月13日 参議院予算委員会 中山恭子議員の質疑より
中山恭子委員 麻生大臣は、ウズベキスタンでは、Taro Asoと呼ばれて大変尊敬されていらっしゃいます。カザフスタンのナザルバエフ大統領にもお会いになっていらっしゃいますが、中央アジアの国々での日本人の動きについて、ひとことお話いただけませんでしょうか。

麻生副総理 カリモフという大統領がおられるんですが、1997年だったと思いますが、日本の閣僚として初めてウズベキスタンという国に行きました。大統領と接見があって、我々同友会から数十人同行されたと記憶します。

 「子供の時、毎週末、日本人捕虜収容所に連れて行かれた」。ご存知かと思いますが、45年から46年にかけて、シベリアからウズベキスタンに2万5千人捕虜が移送されております。そのことを言っておられるんだと思いますが、

「その捕虜収容所に連れて行かれた。母親が私に言った台詞は毎週末同じだった。
『せがれ、ご覧、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。人が見なくても働く。お前も大きくなったら、必ず人が見なくても働くような人間になれ。』
 おかげで母親の言いつけを守って、今日俺は大統領になれた」。

 なかなか一緒に行った私より、もっとご年配の方が多かったもんですから、非常に感激をしておられましたけれども、これは徹底して、この人が大統領でおられたために、色んなところにこの点は徹底して、今言われたナヴォイ劇場の話だと思いますが、これはナヴォイ劇場はその捕虜が建てたものですけれども、これはウズベキスタンの大地震の時に、このナヴォイ劇場だけが倒壊しないで残った。

 したがって、そこには、「日本人捕虜」と書かず、「日本国民」と書き直されて、我々は捕虜にした覚えはないので、日本国民によって建ててもらったということが書いてあるんで、これはウズベキスタンという国という中央アジアの中において大勢力ですけれども、
 この国において、日本人が非常に定着し、日本の文化というものが広まっていった基の基はその2万5千人にのぼる捕虜収容の、捕虜収容所に入れられた方々のひとりひとりのご努力の結果、今日の日本・ウズベキスタン関係、出来上がった基礎は、そこにあると、私も、伺った時そう思いました。

中山恭子委員 ありがとうございます。日本の文化のすばらしさをみんなでもう一度誇りを持って過ごしていきたいと思います。委員長、大変ありがとうございます。

 大東亜戦争の末期、外地にいた65万人もの日本人がソ連に強制連行された。
 最も良く知られるのは、シベリアでの悲惨な強制労働だ。
 だが、中央アジアにまで連行されたことは、あまり話題にならないため、知られていない。


 ウズベキスタンに連行されたのは、麻生副総理の答弁にあるように、2万5千人だ。 
 その拘留者の労働は、道路、工場、運河、炭鉱、発電所、学校などの建設と、多岐にわたっている。社会インフラの整備である。

 そして、過酷な労働、慣れない気候、十分ではない食事、危険な労働などの結果、抑留者のうち、813人もの方々がウズベキスタンで命を落としている。

 件のナヴォイ劇場建設には、500人の日本人拘留者が従事した。そしてこの500人のうち、約60人が命を落とした。死者が就労者の1割を超すほどの重労働だったわけだ。


 しかし、このような悲惨な環境においても、私たちの祖先は手を抜くことをしなかった。
 ナヴォイ劇場の工期は約2年と言われている。その2年間、如何に理不尽な労働であろうとも、彼等は日本人としての矜持を失わなかったのだ。これは美談というレベルを遥かに超えた、「偉人伝」である。


 当時のウズベキスタンは、勿論ソ連の一部である。日露戦争で戦い、そして自国を破った日本人に対する感情は、普通に考えても良かったとは思えない。

 だが、その日本人拘留者たちのひたむきな努力が、カリモフ大統領の母親の心に訴えかけたのだろう。今年、恵隆之介氏の「海の武士道」が、山形県教育委員会に採用され、道徳教育用の指導教本に掲載された。

 この“タシケントの奇跡”も、是非とも教育現場で採用され、子供たちに学んで欲しい事例である。

 ついでに言えば、メディアも支那や朝鮮の雑音ばかり報道せずに、こういう先人たちの遺したものを伝えてほしい。


 最後にひとつ。中山恭子先生のFacebookで、ある方の書き込みに感動させられた。その方がウズベキスタンに旅行に行かれ、首都タシケントの観光でナヴォイ劇場を見学した際、現地のガイドが「ここで亡くなった抑留者の墓が近年新しく整備されました。それは前の大使の中山さんが尽力されたものです」という話をされたそうだ。

 前の大使の中山さんとは、元在ウズベキスタン特命全権大使、中山恭子氏その人であろう。維新の会のお家騒動は続くが、この方だけは絶対に落選させてはならないと、強く思うのである。


Nakayamakyoko

中山恭子先生











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