http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150806-OYT1T50099.html
対アジア「侵略だった」…中曽根元首相が寄稿
2015年08月07日、読売新聞
戦後70年にあたり、中曽根康弘元首相(97)は読売新聞に寄稿した。
アジアとの戦争は「侵略戦争だった」と認め、先の大戦を「やるべからざる戦争であり、誤った戦争」と総括した。こうした否定的な歴史を直視しなければ、近隣諸国から信頼を得ることはできないと指摘した。
戦時中は海軍に所属し、1982~87年に首相を務めた中曽根氏は、戦後政治とともに歩んできた宰相経験者として、寄稿の中でこの70年間を振り返った。
先の大戦を「帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦い」と評する一方、アジア諸国の国民に対しては「侵略戦争でもあった」と言及した。特に対中国では、大隈内閣が日本の権益拡大を求めた1915年の「対華21か条要求」以降、侵略的要素が強くなったとし、「中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない」と記した。
>先の大戦を「帝国主義的な資源や国家、民族の在り方をめぐる戦い」と評する一方、アジア諸国の国民に対しては「侵略戦争でもあった」と言及した。特に対中国では、大隈内閣が日本の権益拡大を求めた1915年の「対華21か条要求」以降、侵略的要素が強くなったとし、「中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない」と記した。
中曽根康弘は、歴代首相の中でも、支那の理不尽な言い掛かりに屈して、最初に靖国神社参拝をやめた恥ずべき最低の首相の一人だ!
中曽根康弘は、戦時中は海軍主計少佐だったにもかかわらず、1985年に支那からそれまで問題にもされなかった首相の靖国神社参拝が突然非難され始めたら、アッサリと靖国神社参拝を取りやめた支那のポチだった!
97歳なのだから、自分が生きて知っている時代の事実についてのみ言及すれば良いものを、あえて自分が生まれる前の1915年の「対支21か条要求」について知ったかぶりをするから赤恥をかく!
この「対支21か条要求」というのは、袁世凱が考えて、袁世凱が日本に要求させる演出をした【自作自演のヤラセ】だった。
「対支21か条要求」は、第1号~第5号まで5号21カ条からなる支那に対する日本の要求だが、特に第5号で「日本人を支那政府の財政及び軍事顧問として招くこと」を要求したため、日本が支那を保護国にしようとしていると、支那だけでなく米英などからも非難された。
多くの偽造自虐史観が定説となっている日本において「対支21か条要求」も、日本の支那侵略の象徴などと言われている。
だから、中曽根康弘のような糞馬鹿爺まで「日本の権益拡大を求めた1915年の『対華21か条要求』以降、侵略的要素が強くなった。中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない」などと尤もらしく知ったかぶりをする。
しかし、真相は、全く異なる!
本当は、袁世凱が「21か条要求」を考えて、袁世凱が日本に要求させた【自作自演のヤラセ】だったのだ!
このことは、支那の国父(孫文)が非常に詳しく証言している。
▽▽「21か条要求」の真実▽▽
――――――――――
孫文
二十一箇条条約の歴史に付いて略述する。
多くの人は21か条要求を日本の中国侵略の現れだと思っている。
もし、それが本当であれば、統一中国は、日本の圧迫に対抗すれば良い訳である。
ところが、この問題は中国側から起こったというのが事実である。
すなわち、袁世凱は、このような過大な特権を日本に承認する(与える)代償として、自分が皇帝になることを日本に支援させようとしたのである。
当初、日本は、このような激烈な要求を出すことに、しりごみした。
当時の外相加藤高明は、袁世凱が要求を呑むかどうかを仔細に観察し、呑むことを確認した後、絶対に秘密を守ることを要求し、日本側が提出するまでは内容を漏らすことを禁じたのであった。
ところが、提出後、新聞に載り、中国はもとより外国や袁世凱の部下までもが反対をした。
袁世凱は日本に対して終始この要求内容を堅持することを求め、必要ならば日本軍を出兵して武力を誇示することを求めた。
そこで、日本は、袁世凱の画策に従って中国に派兵したのである。
当時の日本人も、日本政府の暴挙を攻撃したが、政府はおかしな言い訳しか出来なかった。
一方、袁世凱は、中国においては、日本の派兵を威嚇行為であるとし、中国人に彼を信じさせようとした。
すなわち、21か条要求を承諾しなければ、日本は武力行使をするであろうと。
この袁世凱の深い密謀は、従来中国民衆が知り得なかったものである。
当時世論は、日本政府の大失態とし、加藤外務大臣は辞職。
中国側においても全体が一致してこの事に反対したが、袁世凱は当時の首相(現北京総統)の徐世昌と外交総長の陸徴に、無理に中国を圧迫するこの協定に調印させた。
このため21か条条約は既成の事実となって、日本人も重ねて政府を責めないようになった。
『孫文全集』より抜粋要約
(原典)
外務省調査部偏『孫文全集』中
原書房、昭和42年8月20日発行
編集兼発行人、成瀬恭
第2編 講演及談話
より抜粋
次ニ二十一箇条条約ノ歴史ニ付イテ略述スル。
二十一箇条約トハ何カ。多クノ人ハ之ヲ単ニ日本ノ中国蚕食(サンショク)ノ一ツノ現レデアルト思ツテヰル。之レガ若シ真ニ然ルナラバ、至ツテ簡単ナ問題デアツテ、一箇ノ統一国タル中国ガ、日本ノ圧迫ニ対抗スレバヨイ訳デアル。
然ルニ此ノ問題ハ中国人カラ起ツタモノデアル。即チ袁世凱ガ故意ニ日本ノ斯クモ過大ナル特権ヲ承認シ、之レガ代償トシテ、日本ヲシテ、彼ガ中国ノ皇帝タルコトヲ援助セシメタノデアル。
当初日本ハ、斯ル激烈ナ条約ノ提出ヲ逡巡シタ。当時ノ日本ノ外務大臣加藤高明男爵ハ、予メ先ズ仔細ニ袁氏ガ応諾スルヤ否ヤニ付イテ観察シ、彼ニ応諾ノ意思有ルコトヲ確メ得タ後、更ニ袁氏ニ絶対秘密ヲ守ルベキコトヲ要求シ、日本側ヨリ提出スル迄ハ、之ガ条約ノ内容ヲ漏洩スルコトヲ禁ジタノデアツタ。
然ルニ提出後、新聞紙ガ此事ヲ世ニ漏スヤ、中国及外国ノ各方面ニ於テ、紛々タル反対ガ起ルニ至リ、袁氏ノ部下迄モ反対ヲ唱フルニ至ツタ。茲ニ於テ袁氏ハ日本政府ニ、終始其ノ主張ヲ堅持シ、必要ガアレバ出兵シテ武力ヲ示スベキヲ要求シタ。
ソコデ日本ハ袁ノ画策ニ従ツテ中国ニ派兵シタノデアル。当時日本人モ、皆日本政府ノ斯ノ如キ無暴ナ挙ヲ攻撃シタガ、日本ノ首相ハ、満鮮駐屯軍ノ満期ニ当ル為、派兵交代セシムルモノナル旨ヲ声明シタ。然シ之レハ完全ナ飾詞デ、派兵シタノハ満期ノ二ヶ月前ノコトデアツタ。而モ日本ノ首相ハ遂ニ之ヲ以テ中国ノ反対ヲ圧ヘテシマツタノデアル。
他方中国ニ於テハ、袁世凱ハ日本ノ派兵ヲ直接威嚇行為ナリトシ、中国人ヲシテ彼ヲ信ゼシメントシタ。即チ二十一箇条条約ヲ承諾シナケレバ、日本ハ武力ヲ用フルデアラウ、トナシタノデアル。此ノ種ノ深イ密謀ハ、従来民衆ノ暁リ得ナカツタモノデアル。然ルニ此ノ種ノ事実ヲ知ルコトナシニ、中国問題ノ正当ナル解決方法ヲ求メヨウトスルコトハ、実ニ至難デアル。
当時ノ日本ノ世論ハ、之ヲ日本政府ノ外交上ノ大失態トナシ、其ノ結果加藤外務大臣ハ辞職ヲ迫ラルルニ至ツタ程デアツタ。
他面全体ノ中国人モ一致シテ此ノ事ニ反対シタガ、袁世凱ハ現北京総統タル、時ノ首相徐世昌及外交総長陸徴?ヲシテ、無理ニ中国ヲ圧迫スル此ノ協定ニ調印セシメタ。之レガ為ニ此ノ二十一箇条条約ハ既成ノ事実トナリ、日本人モ重ネテ其ノ政府ヲ責メナイ様ニナツタ。
――――――――――
袁世凱は、自分が皇帝になることを日本に支援させる代償として、日本に過大な特権を与えることにした。
その際に、袁世凱は、日本に対して「日本からの『要求』ということにしてくれ」と依頼し、更に「必要ならば日本軍を出兵して武力を誇示してくれ」とも求めて高圧的な要求を演出し、一方で支那においては【日本からの威嚇行為】と主張した。
つまり、「対支21か条要求」は、袁世凱による【自作自演のヤラセ】だった。
【加藤高明】(1860~1926)岩崎弥太郎の女婿。四度外相。1916年(大正5)憲政会を組織して,第二次護憲運動に参加。24年首相。翌年普通選挙法・治安維持法を制定
(参考1)
袁世凱は、自分が皇帝になることを日本に支援させる代償として、日本に過大な特権を与えることにした。
その際に、袁世凱は、日本に対して「日本からの『要求』ということにしてくれ」と依頼し、更に「必要ならば日本軍を出兵して武力を誇示してくれ」とも求めて高圧的な要求を演出し、一方で支那においては【日本からの威嚇行為】と主張した。
つまり、「対支21か条要求」は、袁世凱による【自作自演のヤラセ】だった。
【加藤高明】(1860~1926)岩崎弥太郎の女婿。四度外相。1916年(大正5)憲政会を組織して,第二次護憲運動に参加。24年首相。翌年普通選挙法・治安維持法を制定
(参考1)
二十一ヵ条要求の背景
世界中が戦争に巻き込まれていた1915年、日本はこれを好機と捉え失地回復を図った。
二十一ヵ条からなる文書を認め、中国代表団に提示した。
いわゆる「二十一ヵ条要求」である。
確かに「要求」といわれれば「要求」かもしれない。
全容は明らかにされなかったが、日本が最も力を入れたのは、1923年に期限切れとなる鉄道の租借期限の延長であった。
これを知ったアメリカがまず日本非難に回り、列強も同調したので要求を幾分和らげることとなった。
これは交渉に当たった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。
ところが、中国側はこう持ち出してきた。
「内容はこれで満足だが『要求』ということにしてくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが」と。
これを受けて日本側は「その方が良いならそういたしましょう」と言って、高圧的な態度に出るふりをした。
それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。
裏でかなりの金が動いたであろう。
中国との交渉事は金次第とみてきたからである。
ところが今回は計算違いだった。
「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。
ところがアメリカがこれに噛み付いた。
「哀れな中国に、過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、同情が湧き上った。
(P256~258)
『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)、田中秀雄・先田賢紀智共訳
(参考2)
中央であると地方であるとを問わず中国当局が余りにも妨害政策を推進したために、日本は1915年に中国に対して「21ヶ条要求」を提出しなければならなくなった。
この要求に関しては中国の宣伝によって余りにも大きな騒ぎが生じたためにその本質がかすんでしまうほどであった。
この21ヶ条要求(本質的な狙いは満州の日本利権の保護)は、中国に侵害されかけているこの地域での日本の足場を確り固めようと言う意図の下に考えられた警告手段以上の何ものでもなかった、というのが真相である。
(中略)
21ヶ条要求が出されたとき日本側の責任者であった外務大臣の加藤伯爵の伝記の中に、1915年の交渉のときに日本政府が最後通告を出すことを中国側代表が非公式に求めてきた、と記されている。
その理由は、そうすることによって袁世凱大統領が条約により調印しやすくなり、彼の政敵に対するもっともらしい言い訳を与えてくれるからだ、というのだ。
『シナ大陸の真相』 K・カール・カワカミ著(1938年)、福井雄三訳
以上紹介した複数の資料からも判るとおり、「21か条要求」は、実際には袁世凱が考えて、袁世凱が日本に要求させた【自作自演のヤラセ】だった。
紹介した『暗黒大陸中国の真実』や『シナ大陸の真相』などでも演出(「日本からの高圧的な要求」ということにしたヤラセ)について述べているが、何よりも『孫文全集』において【袁世凱が考えて、袁世凱が日本に要求させた演出(自作自演のヤラセ)だった】旨を暴露されているから、決定的だ!
中曽根康弘は、これ以上生き恥を晒すな!
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