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現在、主に韓国国内にて朝鮮民族を韓民族・韓人と呼称するが、 これは新羅建国前の韓人とは本質的に別民族である。

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現在、主に韓国国内にて朝鮮民族を韓民族・韓人と呼称するが、 これは新羅建国前の韓人とは本質的に別民族である。

現在、主に韓国国内にて朝鮮民族を韓民族・韓人と呼称するが、
 これは新羅建国前の韓人とは本質的に別民族である。
日本人、うかうか脳天気してると乗っ取られるぞ!3

民族 [編集] 
紀元前後の朝鮮半島は元来、粛慎、挹婁、靺鞨、沃沮濊、濊貊等、各諸民族の混在地域である。
その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される。[88]
また『魏志東夷伝』によると、東アジアからも『陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、
朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)』とあり、
朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。
また隣国、百済・高句麗等の扶余系民族(現在の満族と同系統)も国内に抱えていた。
百済・任那・伽耶・新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから、
一定数の倭人が同地に居住していたとされる。また新羅王族の昔氏が倭人とする説もあり、
日本による支配を受けていた時代もあることから、
新羅の重臣には倭人が多数登用されている。[89]
更に4世紀後半から6世紀前半にかけては、騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の流入もあり、
建国から滅亡まで時代により民族構成も変化している。

現在、主に韓国国内にて朝鮮民族を韓民族・韓人と呼称するが、
これは新羅建国前の韓人とは本質的に別民族である。
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新羅建国神話
朝鮮半島の南東部にあった辰韓の一小国であった斯盧(しろ・サロ)国が、
新羅(しらぎ・シルラ)に名を代えて発展していった。

『三国史記』新羅本紀(高麗が三国史記を編纂、1145年によれば、
朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える
新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、
それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を
・朴氏新羅(初代赫居世居西干~)
・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今~)
・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今~)と呼ぶ。

なお、昔氏新羅時代に初代金氏の王である第13代味鄒尼師今が、
また金氏新羅時代には第53代神徳王から3代だけ朴氏から王が出ている。
朴氏初代の朴赫居世
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きながあった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、
辰韓の語で瓠(瓢箪/ひょうたん)表す「朴」を姓として名乗った。
建国時に腰に瓠(ひょうたん)をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。
また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、
またはその同族とする説がある[11]。
朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、
国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍が現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた。当時の人々は赫居世と閼英(アルヨン)とを二聖と称した。
 
瓠公(ここう、生没年不詳)は新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。
また金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
もとは倭人[1]とされる。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、
新羅の建国時代の重要人物である。
瓠(ひさご/ひょうたん/瓢箪)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついた
と『三国史記』は伝えている[2][3]。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠から取られているため、
同一人物を指しているのではないかという説がある[4]。
また、脱解尼師今が新羅に着した時に瓠公の家を謀略で奪ったと言う。この瓠公の屋敷が後の月城(歴代新羅王の王城)となった[5]。
脱解尼師今(だっかい にしきん)は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)であり、姓は昔(ソク)、名は脱解(タレ)
 
三国史記を読むと新羅の建国当初の時代の王や要人は倭人である。
 
もともと日本海沿岸に覇権を握っていた出雲を中心とする権力の意向によって(後の)新羅(白木・白岐)に王として封ぜられていたのが倭人だったのであり、その倭人の王ではないでしょうか。
 

具体的には「スサノウ/素戔男」尊が新羅では二代目の王「次次雄」と伝わる人物で、次次雄の婿養子の「脱解」は、死(海外亡命)も経験した苦難の末に中央(出雲)で成功して大国主となった「大穴牟遅」神かもしれません。出雲の権力が、新羅や越国などの旧領を回復したため、新羅では四代目の王とされたか、もしくは、国譲りにより亡命して即位したのだと思います。瓠公の家を「乗っ取っている」ので、この時は平和的とは言えない征服と言えるような動乱だったかもしれません。

 

出雲の復興を果たしたものの、晩年には「国譲り」により地祇は破れて天神が権力を握り、(大国主の死または亡命とともに)新羅における、列島の倭人国家による覇権が失われたのでしょう。(列島の代表者としての天神の隆盛は西暦57年の「漢委奴國王」金印が如実に物語っています)。

 
倭人の王の子孫たちはその後も新羅の王位を継いでいきますが、2世、3世となると文化も風習も現地化し、やがて倭人とは完全に異なる新羅の人間としてのアイデンティティーを形成したのだと思います。
 
『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。

倭国の東北一千里のところにある多婆那国[1]で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。[2]やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。

昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説がある。
治世 [編集]
 

百済の多婁王と蛙山城(忠清北道報恩郡)をめぐって度々戦争があった。また73年、倭人が木出島[3]に進入してきたが、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した。77年には伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。

65年には後の金氏王統の始祖となる金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)を瓠公が発見し、跡継ぎとして養育することとなった。実際には脱解尼師今の後は儒理尼師今の子が王位を継いで婆娑尼師今となり、儒理尼師今系の4人の王の後で脱解尼師今の孫が伐休尼師今が王位につくという複雑な継承となり、金氏の王統が直ちに立てられたわけではなかった。詳細は朝鮮の君主一覧#新羅の王系図参照。

在位24年にして80年8月に死去し、首都金城(慶州市)の北壌井丘に葬られた。
 
新羅王は、日本人だった!
2008/03/03 10:12
 
本日は、あまり知られていない興味深い話について書く。
現在の朝鮮人(韓国人)の直接の祖先(本貫)である新羅の王家の1つが、日本人の王家だったという話だ。
 
韓国では、李氏朝鮮の時代から出自による差別が半端じゃなかったこと、低モラルな民族性等の理由により、戸籍の改竄が盛んに行われた。現在金とか朴とか李という姓が異様なまでに多いが、これらの姓は、いずれも、かつて朝鮮半島に存在した王家の姓だ。
 
新羅には朴氏、昔氏、金氏という三つの王家が存在したが、朴氏は初代王家の姓であり、金氏は、西暦356年以降、ずっと王家を保った王族の姓だ。(厳密には、912年から927年までの3代16年間、朴氏が復活)
 
韓国・北朝鮮で人気ナンバー1の姓である金氏は、新羅王家の姓だった。朝鮮人(韓国人)が、争って出自を改竄し、金氏を名乗ったのは、自分は新羅王家の子孫といいたかったためだ。朴氏も同様だ。
 
新羅を倒した高麗王家の姓は王氏だった。王氏も人気がありそうだが、
朝鮮人で王氏という姓を聞かない。
なぜか?それは李氏朝鮮が、王氏一族を皆殺しにしたせいだ。
 

王位から追い出された高麗王家の王一族は、都を追い出され、2年後の1394年に李成桂の命令でことごとく処刑されている。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、その難を逃れようと多くの者は改姓をしたと言われている。全氏や玉氏、田氏などは姓を変えて難を逃れた王氏の一族であると言われていた。(以上ウィキペディア「李氏朝鮮」より)

 
戸籍を改竄して王氏を名乗った日には、殺されかねないので、王家の姓でありながら、人気がないどころか、事実上絶滅してしまった。
朝鮮半島には李氏という姓も多いが、それはいわずと知れた李氏朝鮮の王家の姓だからだ。
 
朝鮮王は代々、中国皇帝の臣下だったので、天皇家をいただく日本とは、まったく比較できない。だが無理して比較すると、国民の半分以上が名前を改竄して秋篠宮とか高松宮とか秩父宮を名乗っているようなものだ。バカバカしいというより、民族としてみっともない話だ。
 
現在の韓国・北朝鮮では、高句麗王家の高氏、百済王家の扶余氏もほとんど聞かない。それは、新羅人にとって高句麗人や百済人は外国語を話す外国人だったからだ。高句麗・百済は扶余系氏族で、朝鮮(多勿)族国家だった新羅とは、言葉がまったく通じない異民族同士だった。滅亡した外国の王家の姓をわざわざ改竄して名乗る者など、いなかった。朝鮮社会で、高だの扶余だのを名乗れば、逆に差別の対象になったはずだ。
 
ところが現在の朝鮮人の本貫国である新羅の3つの王家の姓でありながら、まったく人気のない姓が1つある。それが昔氏(せきし)だ。
 
昔氏は、新羅王家の姓なのに、どうして人気(改竄対象)がなかったのか?
 
それはズバリ、正史「三国史記」に、昔氏が日本人としか考えられない記述があるからだろう。
 
以下は新羅の第4代王、脱解尼師今(だっかいにしきん)のウィキペディアの記述の引用だ。*脱解尼師今をクリックすると、ウィキペディアにアクセスします。
 

倭国の東北一千里のところにある多婆那国(丹波国?但馬国?)で、その王が女国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国(のちの任那日本府比定地)に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。姓名がわからなかったので、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という。長じて第2代南解次次雄5年(8年)にその娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。

 
これは普通に読めば、日本の王子が新羅に渡って王になったという話だろう。日本の古事記や日本書紀にでてくる天之日矛伝説の逆の話だ。
 
高麗が三国史記を編纂したのは、1145年の話だ。日本でいえば、平清盛が28歳のころの話だ。上記の新羅王の伝説は、朝鮮人にとって愉快な話ではないだろう。それをあえて記したというのは、事実だったからだろう。
 
広開土王碑は、日本軍が作成した拓本より古いものが中国で発見され、日本軍による改竄説は、中国によって公式に否定された。そして近年、朝鮮半島南部に前方後円墳がボコボコ発見されている。学問の世界で任那日本府は否定しがたいものになっている。
 

しかしそれよりさらに古い時代、新羅には日本人王がいたようだ。昔氏は5人の新羅王を輩出した。新羅の昔氏(日本人王家)最後の王訖解尼師今の在位年は356年までだ。奈良県の石上神宮が保管している国宝七支刀の金石文から、この刀の製造年は西暦369年だ。七支刀製造の14年前の話だった。

 
なお昔氏の訖解尼師今が崩御し、金氏の奈勿尼師今が即位した356年を新羅の建国年と記している書物・歴史書は多い。
 
初代昔氏新羅王が即位した西暦57年は、ズバリ漢の光武帝が倭の奴国に金印を授与した年だ。(後漢書)そして最後の昔氏新羅王が崩御した翌年、日本では神宮皇后の夫である仲哀天皇が即位する。(古事記干支年)
 
新羅の昔氏王朝が滅亡した直後、神宮皇后による朝鮮出兵は行われている。(報復戦争?)ちなみに広開土王が生まれたのは、昔氏王朝滅亡の19年後、374年のことだった。
 
広開土王碑のクライマックスは、百済と新羅を臣民にしていた日本を広開土王が391年に撃ち破ったことだった。
 
日本の古代史を考える上で、新羅王朝の昔氏はきわめて重要な意味合いがあるのではないかと、最近考えている。

日本書紀によれば、スサノオは高天原を追放され、新羅に降り立ち、ますが、「私はこの土地にいたくない」 といって粘土で船を作り、それに乗って東に向かい、出雲の国の簸川の川上にある鳥上之峯に着いたと記述されています。

また、古事記によれば、それぞれが父イザナキに任された国を治めていましたが、スサノオだけは自分の国を治めようとせず、大人になって髭が長くのびても泣きわめきます。 父イザナキが理由を聞くと「私は亡き母に会いたくて、母が住む根の堅州国にいきたくて、泣いているです」と言います。  これを聞いたイザナキは大変怒って、「ならば、おまえはこの国に住んではならない」といい、スサノオを追放した。  という話も、朝鮮半島から日本に帰りたいと願い、帰ってきたとも解釈できます。


スサノオは新羅の人だと思い込んでいる人をよく見かけますが、日本の神々の天孫から追放され新羅に着き、「私はこの土地にいたくない」と言っている時点で、スサノオは日本人で、新羅に流されたものの、日本に戻ってきたと考えるべきであると思います。

スサノオ伝説では、古代のたたら製鉄と深く関わっているとされ、出雲は日本で最初に製鉄が始まったとされ、ふいごで強風を送って高温を作り出し、良質の鉄を高度な技術は、スサノオがもたらす強風・嵐とイメージがあいます。

「三国遺事(さんごくいじ)」は脱解王を「鍛冶(かじ)」としていた事からも、スサノオは脱解王もしくはその一族である可能性はきわめて高いと考えられます。

古代新羅の「昔」王朝は、日本人の脱解がつくった王朝です。何故、「昔」なのかは前述しましたが、朝鮮に箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という事です。  朝鮮半島の正史「三国史記」に記されています


YaHoo 知恵袋
韓国人のルーツは、高麗人でも百済人でもなく別民族のエベンキ(エヴェンキ)族というのは本当ですか?
韓国では大真面目に国家機密扱いらしく、エンコリでこの関係のスレが立つと10分以内に運営によって消された。 
余程都合が悪いらしい。 
朝鮮民族とツングース系の代表民族であるエベンキ、エベン族とは共通風習、歌、言葉などから、「朝鮮民族」とは同じ流れと分かる。馬を持たなかったエベンキ族の代表的な歌は、遠くの人々を 懐かしむ「アリラン(迎える)・スーリ(感じとる)」

朝鮮のアリランには「アーリアリラン、スールスーリラン」とそっくりな言葉が続く。節回しも酷似している。アリランという言葉、スーリも意味不明と言ってるが、エベンキの言葉では意味はハッキリしている

朝鮮とエベンキ、ワイ族には、棒を立てたソッテ、トーテムポールのチャンスンが共通。朝鮮の神社にあたるものであるソッテって、こんなものなんだよね。
いずれにしても、森を大事にする神社とは似ても似つかぬもの。
チャンソンと呼ばれるトーテムポールの様な木像で、エベンキ族と朝鮮でだけ見られ中国や日本にはない風習。

朝鮮人は自分たちのルーツが実は高麗人でもなければ百済人でもなく他民族だったというのを隠したくてしょうがない。 
という話をどう思いますか?

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