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中国四千年間高い文明を誇ってきた、これは事実ではありません。

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中国四千年間高い文明を誇ってきた、これは事実ではありません。

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中原の黄河文明とは別起源の長江文明を興した民族に根差すと考えられている南方のも覇を競った春秋戦国時代を経て
紀元前221年に中国最初の統一王朝秦初代皇帝となった、始皇帝 政、

彼もまた
西戎
胡人(イラン系白人種
 漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝前漢後漢)では
最盛期には人口が6000万人を数えたが、

黄巾の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、
中原の戸籍に登録されている
人口は500万人を切った。
この後は、北族の時代を迎え、
岡田英弘この時点でオリジナルな漢民族は滅亡したと考察している
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NHKが何故このような背景を無視して
「唯一中国文明だけは、4000年以上にわたってほぼ同じ地域で同じ文明を維持してきた。」などと、中国側にとって有利な主張を垂れ流しにするのか意味不明である。

今の中国の地域に存在した黄河文明は、
エジプト、メソポタミア、インダスの文明と
同様に滅びた
という認識が一般的なのだから、

NHKの主張は100%おかしいのである。


そもそもNHKは
我が日本の歴史「日本は世界で唯一2,672年も単一の皇室を中心とした国家である」を報道すべきだと思うが、それは絶対にやらない。

中国に媚びる報道を繰り返すNHKに

受信料を払う義理など全くない。


漢民族はほぼ絶滅し、遊牧民族に取って代わられました。 
私は、中国語を勉強しようと思い、週2時間教室へ通い、中国語検定4級を取りました。 
しかし、昨今の情勢で、勉強するモチベーションがなくなり辞めました。 
ある日のコメントを丸写しし、十数人に読めと言って 渡した内容は、以下の通りです。 
改めて読み返すと、今の情勢が納得できます。 
2010/3/26 NO。1 
日本にとって永遠の敵は、中国です。中国というより中国大陸といったほうが適切です。
なぜなら、中国は常に各異民族に征服され、人種もさまざまに変化してきたからです。
しかし、わざわざ「敵は中国」の看板を揚げる必要はありませんが、日本の歴史を検証した場合、
敵は常に中国でした。

中国が世界に宣伝している「黄帝以来四千年間、中国はつねに変わらぬ姿で存在し、
高い文明を誇ってきた、永遠不変の民族である」という主張は、

事実ではありません。


紀元前221年泰の始皇帝によって統一されたが、死後各地で反乱が相次ぎ、
秦王朝は滅法します。その後、光武帝により漢王朝は復興しますが、紅巾の乱が起こり
三国志に突入します。
その後中国は、再び統一され西晋の時代に入りますが、晋は度々北方異民族の侵入を許し
漢民族はほぼ絶滅し、遊牧民族に取って代わられました。
 

その後の日本と、関わりをもった隋や唐は
こうして侵入してきた遊牧民族(鮮卑)が作った

 いわば「第二の中国」です。
 

日本はご存じのように、遣隋使や遣唐使を数十回にわたって使節を派遣して、
論語・漢詩、儒教関連の膨大な漢箱や、仏典を持ち帰り、その後長く徹底的に勉強したのです。
遊牧民族である隋や唐は、
漢民族によって国教化されたこれらの思想を、実践や勉強することなく、
皮肉なことに無数の漢箱を持ち帰った日本人が勉強し、実践し身につけてしまったのです。
そして日本は孔子の教えにある仁(人間愛)と礼(規範)に基ずく理想社会を目指した。
今日、日本人が漢箱を通じて身に付けた、道徳的な中国イメージに裏切られ続けるのは
当たり前のことで日本人が尊敬する漢民族は、遊牧民族に滅ぼされているからです。
 

つまり、異民族である遊牧民族は漢文を理解できません
 
日本人が勉強した漢文は2千年間、中国語とは全く関係ありません。 
日本人は漢文のことを長く中国の古語と思っていたのです。
このように漢箱による教養を身に付けた日本人ビジネスマンが大陸に渡り、
中国人と接しても幻滅して、痛い目に遭うのは当然のことです。
我々が現在接する、中国人は漢民族ではなく凶暴な遊牧民族です。
 
隋・唐・宋(突厥)・金(満州から南下して来た女真族)、
 そして最強の遊牧民であるモンゴルに中国は支配されています。  
注:夏は、越族の派族とも言われている。殷は、民族的には東夷、詳しくは下部の参照を
 
NO.2 
モンゴルのチンギスハーンの残虐性は、地球の時空を越えて知れ渡っています。
モンゴル軍が通ったあとは、男子は皆殺しに遭い、町は破壊され、富や女子は略奪され
町は消滅します。
その野蛮な遊牧民やモンゴルの成代りが現在の中国人なのです。日本人はいまだに
2500年前の漢民族が残した漢箱で中国を理解しようとするから見誤ってしまうのです。

日本人の多くのビジネスマンが、大陸に渡っても「史記」や「三国志」に登場するような
信義や礼に篤い漢民族の中国人に出会うはずもなく、現実にいるのは、油断も隙もない
連中ばかりに遭って、痛い目にあい絶望して帰ってきます。
異民族に常に取って代わられてきた中国には、古代から共通中国語というのは全く存在
しませんでした。そのうえ広大な中国は、各地方ごとに言語が異なります。
つまり中国人たちは、近代になるまで、自分達が話している言葉を書き表わす手段なく自前の文字がなかったのです。
これらの中国の真実を、私は「岡田英弘教授」の著書で初めて知りました。
 

教授は著書の中で

「現在の中国人は、彼らが使っている中国語が、実体は文体もボキャブラリーも日本語からの借用であるということを、すっかり忘れてしまっている」 
と書いています。
現在の中国人も無視していますが、日清戦争後、日本に多くの清国の留学生がやって来て 日本語を学び、日本人が作った漢語を借用し、それによって新知識を中国に導入し、
法典まで日本の法典を丸写ししました。
これらのことは、中国留学生の「魯迅」(ロジン) が言っています。
 
中国人にとって漢文は外国語同然なのです。 
日本人が漢文を返り点や送り仮名をつけて理解したのは、日本人の優れた知恵です。

中国人は「日本の文化は中国の模倣であり、日本の発展は中国のお陰である」と宣伝 していますが、実は全く逆なのです。

中国にとって近代文明の玄関口に立てたのは、日本文化の影響力であり、 
戦後も経済発展 をし、一応見せかけの大国になれたのも、
アメリカと日本の援助と技術力のお陰なのです。

韓国も、全く同じパターンです。この両国民は、日本人のお陰であるという真実をねじ
曲げて、無理やり日本人の上に位置したいのです! 
 
 

夏は西域のチベット系、殷は山東省の沿海民族、周は西北の牧畜民

 
宋の趙匡胤は突厥沙陀軍閥から出た人でトルコ系とする説がある。
明の朱元璋は生まれなんかわからない最下層出身。
清の雍正帝が「我らが夷狄なら周は西戎ではないか」と喝破した ... 
夏(前2070年頃~前1600年頃)はチベット系?
夏の時代のことはよく分からない。
夏の啓という王様(夏王朝の先祖)については異常出生説話がある。
禹が治水につとめて働いているとき、熊の姿となって山下をめぐっているところを、禹の后がそれをみて恐れ、石になってしまった。その女は禹の子をはらんでいたので、禹はその石の前に立ち「わが子を返せ」と叫ぶと、石が割れて啓が生まれたという。
image2010112502.jpg西域の方をといい、夏は大きな顔をした男が、足を挙げて踊っている形(右図)。顔が大きく、背が高い。
これはだいたい西域の系統で、東洋人ではない。夏系統の民族が中国の西半分を占領していた。後になって西をつけて西夏という。
(注:後の西夏(1038~1227)は、黄河が湾曲するオルドスに興ったチベット系のタングート族が建国した。)
 
東方の殷(前1600年頃~前1050年頃)は山東省の沿海民族

殷は山東省から興った国
竜山文化の一番古い黒陶文化が残っている山東省から、河北、河南に進出して殷王朝を建てた。まず北は河北省の一番北、モンゴルに近い藁城(コウジョウ)、そして西の洛陽のすぐ手前にある偃師(エンシ。夏王朝の都)まで一気に進出し、滅ぼしてから退いて鄭州(テイシュウ)に都する。南は揚子江を超えて寧郷(ネイキョウ)まで来ている。

image2010112504.jpg王朝の版図として、最大の外辺部分に非常に優れた青銅器を配置して、異民族に対して邪霊を祓うことを建国の第一の仕事とした。
寧郷の山の西に、南北に連なる武陵山脈があり、水稲文化を早くからもっていた苗族がいた。古くは南人と呼ばれ、非常に強悍で、殷にとっては恐るべき敵であった。南(右図)は銅鼓の形を示す字。
image2010112508.jpgそれで、殷人は西の方の(キョウ)族を祭祀の犠牲に用いることが甚だ多く、50羌、百羌、時には300羌を牲殺した。羌は集団で羊を飼い、後頭に辮髪(ベンパツ)の形を加えた字形が多いので(右図)、今のチベット族にあたる。このような大量の人牲はたぶん断首葬に用いられたもので、首祭りの呪的儀礼は、東南アジアから太平洋諸島にわたる未開の社会に残されている。
1.婚姻制と王位継承
王統の間で近親婚(族内婚)、つまりイトコ婚が行なわれており、姉が嫁入りするとき妹も一緒にひきつれて行った。王位継承は兄弟相続で直系ではなかった。継続上二つのクラスがあり、甲乙のクラス、次に丙丁のクラスが継ぐというように交替の形で行なわれた。
2.神話
天地創成以来の神話をもち、その神々の子孫として王統譜が構成されている。
3.王朝の形成
各地の部族の首長を政治的秩序のもとに組織するために、(「」的な)職能的部族として王室に奉仕させる形態で進められた。
4.文身・入墨の風習
文身の俗は東アジアを中心とする太平洋沿海諸民族のもので、内陸には存しない。
5.子安貝を霊的なものとして珍重した
これも中国大陸のなかでは殷だけに特徴的に見られる。そして、あらゆるものが霊的な存在であるとの汎神論的な世界観をもつ。
image2010112510.jpg殷は、ゆたかな農耕社会を基礎として成立し、まつりを季節的なリズムとして営み、多くの神々とともに生きてきた。
なお沿海族はえびす、という。夷という字は腰を曲げた字(右図)。普通の人なら直立するが、日本人も沿海の人も、みな夷居(イキョ)してお辞儀をする、それで夷という。

西方の周(西周:前1050年頃~前770年)は西北の牧畜民
周は陝西省の渭水盆地を本拠地とする
(注:渭水盆地は関中(カンチュウ)とも呼ばれ、中国古代の政治的中心であり、西周の鎬京(コウケイ)、秦の咸陽(カンヨウ)、前漢・唐の長安などの都はすべてこの地に営まれた)。前14世紀頃から殷に服属する有力な邑の一つであったが、化外の民であったであろう。
周はその伝承から考えると、おそらくもと西北の牧畜族(騎馬民族のような少数民族)。かれらは姜嫄(キョウゲン)の感生帝説話のような祖神の物語をもっていたが、神話の体系をもっていない。文化的にも後進のものであった。
長子相続同姓不婚の宗族
姓を同じくする父系の親族集団を宗族といい、血縁を政治支配の原理とする。宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、その嫡流(本家)を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は大宗の強力な統制のもとで、共通の祖先祭祀などを通じてつねに一族の団結に務めた。
姓組織(=同姓不婚、近親婚への禁忌)は、狩猟・牧畜族のもの
周は姫姓(キセイ)といい、姜姓(キョウセイ)とは古くから通婚の関係にあった。
姜姓の諸国は、羌族が土着して中原諸族の一つとなったもので、羌の字形からみて牧羊人であり、辮髪をしており、チベット系の種族である。羌族は牧畜族ではあるが、あまり戦闘的な性格をもたなかったようである。
image2010112509.jpg(しかしこの温順な種族も、かつては苗族とその地を接していて、激しい闘争を繰り返したことが神話として伝えられている。)
は飾りを施した楯のかたちで(右図)、この特殊な楯を種族のしるしとしていた。かれらは、通婚関係にある姜姓の諸族からみても、好戦的な種族であったらしい。
天の思想
周は、西方の諸族(西北の夏系諸族)と連合して殷をうち、殷の帝辛が再度にわたる東征によって国力を消耗しているときに、これを破って周王朝を建てた。しかし周には、殷に代わりうる神話がなかったので、その王朝の秩序の基礎として、新しい原理を求めなければならなかった。
王たることは、ただ帝の直系たるその系統の上にのみ存するのではない。それは帝意にかなえるもの、天命を受けたものに与えられるべきもの。天命は民意によって示され、民意をえたものこそ、天子たるべき。民意を媒介として、天の認識が生まれ、天命の思想が成立する。天命の思想は、殷周の革命によって生まれ、革命の理論であるとともに、周王朝の支配の原理でもあった。
周人は帝を非人格化した一つの理念としての天を、究極のものとした。これによって、周は古い神話と断絶した。神話の世界は滅び、理性的な天がこれに代わった。
呪的な神秘な力による支配から、内的な徳性、精神的な力に本づくものとなった。
牧畜的な社会を基礎とし、周囲の遊牧民との果敢な闘争を生き抜いてきた周族から見れば、殷は神話のなかに眠る社会であった。
(参考)白川静『漢字-生い立ちとその背景-』『続文字講話』、木下康彦他『詳説世界史研究』


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