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報道されない韓国の凶行 日韓条約と李承晩ラインと漁船拿捕(第一大邦丸事件)・漁民殺傷

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報道されない韓国の凶行

日韓条約と李承晩ラインと漁船拿捕

(第一大邦丸事件)・漁民殺傷

イメージ 1

イメージ 2



【朝鮮日報】在日米軍の出動で安倍首相が韓国を「脅迫」

というなら、読ませてあげる

 


報道されない韓国の凶行 日韓条約と李承晩ラインと漁船拿捕(第一大邦丸事件)・漁民殺傷


日韓基本条約は、1951年(昭和26年)から開催しては決裂、決裂しては再開という14年間に亘る曲折を経て、
1965年(昭和40年)6月22日に日本と韓国間で結ばれた条約です。
 
その曲折の中で起きた第一大邦丸事件を知っていますか?
 
韓国という国が、いかにで凶悪で卑劣かという一つの過去例ですが、怒りがこみ上げてきます。
この悲惨な事件を絶対に忘れてはいけません。


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まずは事件の背景、日韓条約の経緯を少し復習sign01 

(青字はナレーション)(昔のテレビのアナウンサーの声はピンク字)
 
・・・・日本と韓国の国交正常化に向けた動きは1948年、大韓民国の建国から始まりました。


19

韓国の初代大統領・イ・スンマン。韓国は植民地支配から独立を勝ち取った戦勝国であり、

日本から賠償金を得る事が出来ると考えていました。
 
「対日講和会議開会の瞬間が迫りました。」
しかし、韓国は戦勝国の一員には加えてもらえませんでした

"日本と戦争をしていたわけではない"という理由で日本やイギリスが反対した為でした。
戦後補償の問題は二国間交渉に委ねられる事になりました。


1950年、朝鮮戦争が勃発。アメリカを中心とした国連軍、そして中国人民義勇軍が参戦し、
戦闘は朝鮮半島全体に広がりました。

当時、中国・北朝鮮などの共産主義勢力が台頭し始めていました。
これを憂慮したのがアメリカでした。連合国総司令官・マッカーサー元帥はイ・スンマン大統領に対し、日本との国交正常化を要請しました。

さらにアメリカは日本にも、韓国と話し合いを持つよう働きかけ
ました。


1951年10月、14年に及ぶ長い交渉が始まりました。
(中略)


第一次会談の開始前から韓国側は植民地支配に対する賠償を試算していました。

その額は、当時の額でおよそ20億ドル、日本の国家予算の3倍に及ぶ額
でした。

これに対し、日本側は逆に韓国側に要求をつきつけました。

日本が朝鮮半島に残してきた財産の返還を要求し、韓国側の要求から差し引くよう求めた
のです。
韓国側はこれを拒否しました。


韓国側の発言

「日本が真に誠意を示そうとするならば、韓国に対する請求は撤回すべきである。この問題が解決しない限り会談を続けても意味がない。」
第1次会談は開始から2ヶ月あまりで決裂しました。

「いわゆる特需の波に乗って、再び兵器製造に乗り出し、隔壁砲弾・発煙弾などの大量生産が行われ、異様な活気を呈しています。」

朝鮮戦争は日本にとって戦後の窮乏から抜け出すきっかけ
になりました。特需景気が続き、国民総生産は戦前の水準を回復するまでになりました。

一方、国土全体が戦場となった韓国の経済は最悪状態が続いていました。
軍事費が財政を圧迫し、アメリカの援助に頼る経済状態が続きました。

第1次会談の直前からイ・スンマン大統領は

日本に対して強硬な政策
を打ち出していました。
(朝日ニュース)    李承晩ライン問題
111

「遥かに朝鮮半島を望んで果てしなく広がる海原。
この自由な公の海上で、しばしば日本漁船に対する不法事件が繰り返されており、

日韓の海を遮るリショウバンラインが
一方的にされているのです。」
112

イ・スンマン大統領はリショウバンラインと呼ばれる境界線を設定し

これを超えた日本漁船を拿捕
しました。国家の防衛と漁業資源の保護がその理由でした。
日本では、激しい抗議の声が巻き起こりました。


で、本題の
第一大邦丸事件 - Wikipediaなどの襲撃・拿捕事件が起きます。





ソース:  http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-f84a.html




ちなみに、日本漁船拿捕拘留は、朴 正煕も何度もやっているし、去年もやっている。
 

 
◆状況・経緯

 拿捕されるまで

1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。
同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。

そして
日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。


韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)
していた。

しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、

そのとき船尾から30
メートル程度の距離にあった韓国船が、

自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。



日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕
され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。

この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。

第一大邦丸は8時30分に拿捕
され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。

 取調べが始まるまで

同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、

船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に没収
された。


その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の高医院に収容された。

高医院とは名ばかりの医院で病室はもちろん設備も全く無く、

医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否
した。

船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。


しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。

そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、

憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否
された。

船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。


その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。

病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、

医者はリンゲルは高価だと躊躇。

結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった


しかし
韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23時に死亡した。

翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。

同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、

船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、

足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した

帰国まで

2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。

詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、

食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた


取調べで韓国側は拿捕地点は翰林より9マイル付近であったと主張。

日本人船員側が昌運号のコンパスの時差及び速力の矛盾を指摘した
ところ、

韓国側に両者の主張の中間をとろうと言われて、13マイル付近を拿捕位置として
捺印させられた



同時期に取調べを受けていた第二大邦丸の
通信士によると拿捕地点は翰林より30マイルである。


2月12日
に一行は済州に送られる事になったが、誰も漁撈長の遺骨を持ってきていなかったため、遺骨を取りに行くことを要求したが、警察署長に拒否された

船員が移送用の車に乗ることを強硬に拒否したところ、1人だけ残して、次の日に運ぶ事を認められ、残りの船員は車で済州へ運ばれた。


同日23時頃、船員は済州警察査察課第二係に引き渡され、食事を与えられずにそのまま留置所に入れられた。

この留置所も4畳ほどで、しかも他の韓国人と一緒に入れられていた。この留置所では粗末ではあるが食事は与えられた

済州での取調べでは、李承晩ライン侵犯との韓国側からの指摘に対し日本側は、同ラインは韓国が一方的に定めたもので
国際法上認められていないと反論した。


クラーク・ライン
侵犯との非難に対しては、米国公使より作戦の妨害にならなければよいと説明されていたことを伝えた。

この際に
韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。

これは
群島基線に基づく主張であるが、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効であると思われる。


この後、
警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした。

しかし、海図を出して調べるときには

丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に適当に作成された
調書の矛盾より

公海上の事件であった事がわかり、



佐世保
朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、

に対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた

 


2月15日
午前7時頃に、船員は外事主任より今日帰国させる旨通告され、中型ジープで水上署まで移送された。

その際に査察課の課長から、「死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれないのだから。あまり
内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないようにしてくれとの旨の挨拶を受けた。

同日13時に船体の受け渡しがあり、同日済州を出航、

アメリカ海軍
フリゲートエバンズビル」に護衛されつつ、2月17日17時半頃に佐世保に入港、2月21日に佐世保を出航して、2月22日7時に福岡に帰港した。

問題点

  • 民間船に対する無警告攻撃行為
     
  • 当初より明確な軍事行為目的を持っていた。

    外務委員会連合審査会
    によると、

    韓国船2隻には乗組員各12名のほか、

    憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が分乗していた。

     
  • 拿捕後の取調べ時の虐待的取り扱い

    食料を与えない、過剰な人口密度等、

    ジュネーヴ条約
    違反の疑いは払拭できない。


dangerこのようなことで、李承晩ラインへの抗議の声により、交渉再開の機運が高まります。

 
日本では、激しい抗議の声が巻き起こりました。   
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日本政府としては、リショウバンラインというものについての韓国側の主張は絶対に認められないっ
李ライン問題は日本海の漁業で生計を立てていた人達の生活に深刻な打撃を与えました。
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「日本一を誇る魚市場に入荷する魚は少なくなり、いたずらにその広さが目立つのです。例え係争が出ても、海に生活の糧を求める漁師たちには、恐怖の海を承知の上で李ラインへ出かけざるを得ないのです。
最近の出航の別れの言葉は変わってきました。漁船員の妻は今までならばハンカチを振りながら「行っていらっしゃい」と笑顔で見送っていたのが、今では「きっと帰ってきてね」というようになってしまったのです

波止場の別れにも慣れたはずの妻も港に出る船陰を眺めては思わず涙を一筋二筋。乗組員たちも切ない顔つきで笑顔を見せる余裕を無くしてしまった。」


日本では次第に李ライン問題の解決の為に、会談を再開すべきであるという世論が高まっていきました。
当時の新聞の社説です。(朝日新聞)
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韓国側の言動はいかにも不当であって、我が国民感情を刺激するところが少なくない。我々は目下中止している日韓交渉を即時再開し、両国の間で合理的な解決策を討議すべきであると考える。
黒田氏反日ナショナリズムって言うんですかねぇ、日本に対する激しい、、日本に特に植民地時代に対する怒りと恨みの念を持ってた。そういう考え方に従って反日政策をとった。それの一番の象徴みたいなものになったのがリショウバンラインなんですね。ほんっとに日本にとっては、これが解決しなきゃ日韓会談は纏められない、そういう一番大きな問題になってきてたわけです。」

オ氏
韓国側が李ラインを交渉のカードに使ったというのは全くの誤解です。そんな事は考えていなかったと思います。結果的に会談の過程で日本が漁業問題に大きな感心を持つようになり、この問題の解決無くしては、他の交渉にも応じられないという立場を日本側が取っていたので、おのずと韓国側も感心を持つようになっていったわけです。」

外務省は、李ライン問題について話し合うため会談の再開を申し入れました。
韓国側は李ライン以外の問題についても話し合う事を条件に交渉に応じました。

1953年10月、韓国側の首席代表は引き続きキム・ヨンシュク駐日公使。日本側の首席代表は外務省の久保田貫一郎参与でした。
韓国側は、「日本が韓国に残した財産の請求権を放棄すべきである」と宣言、更に「李ラインは国際法上認めらたものだ」と主張しました。

これに対し、日本側は「李ラインは認められない。

対韓請求権も撤回しない」
と反論。

両国とも従来の主張を繰り返しました。

この時、韓国側の代表団の一人が次のような発言をします。

韓国側の発言
日本が36年間の蓄積を返せというならば、韓国側としても36年間の被害を清算せよ。と言うしかない。」
これに対する久保田主席代表の発言が日韓会談の行方を大きく揺さぶることになりました。
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久保田氏日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりしたし、大蔵省は当時多い年で2000万円も持ち出している。これらを返してもらえば、韓国側の請求権と相殺できるではないか。これから先言う事は記録を取らないでほしいが・・・
当時、日本が行かなかったら中国かロシアが入っていたかも知れない。」
この発言に対し、韓国側は激しく反発しました。

韓国側の発言
「あなたは日本人が来なければ韓国人は眠っていたという前提で話をしているのか。日本人が来なければ、我々はもっとよくやっていたかも知れない。1000万円とか2000万円とかの補助は韓国人のために出したのではなく、日本人の為に出したもので、その金で警察や刑務所を造ったではないか。」
韓国側は声明を発表しました。久保田発言を全面的に撤回しない限り、会談は続行できない。この発言は会談の基礎を完全にぶち壊すものである
久保田主席代表も韓国側の態度を批難しました。議論の席上の片言節句を捉えて、一国代表の発言の取り消し要求をしたことは、外交交渉に前例がない。
当時、日本の世論では久保田発言に対する批判的な声は上がりませんでした。
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政府は、会談は韓国側の理不尽な態度により継続不能に陥ったと発表しました。
韓国国会では、久保田発言の取り消しを求める決議案を満場一致で採択発言は傲慢無礼、荒唐無稽であり発言に対する日本政府の支持は許しがたいという内容でした。
日本の国会でも、日韓会談の決裂について取り上げられました。

久保田氏
「朝鮮総督府政治の悪いところがあったのは認めるとしましても、良い点もあったという事は、これは日本としましてはどうしても取り消せないことだと存じます。」(参議院水産委員会にて答弁)
岡崎外相

「我々としましては

何も間違ったことを言っているわけでもないし、

謝る理由はひとつもない
のでありますから、

それを謝るという事は出来ないので、

等々、会議は不調に終わりました。」


当時、与野党共に会談決裂の原因は韓国側にあるとしていました。・・・


こうして李承晩ラインとその後の韓国海軍による銃撃、拿捕など軍事力により、竹島は侵略されました。

これもオチがあり・・・
この李承晩ライン以降、韓国は竹島(独島)を自国領だと主張し続けているわけですが、李承晩ラインが引かれた8年後、米の駐日大使であったマッカーサー2世が、当時の米国、韓国大使に宛てて出した長文の公式電報に「竹島は韓国が不法占拠している」と明確に指摘しています。(続きを読む)


このように李承晩ラインこそが、侵略行為なんです。
だけど日本がどんだけ証拠を出しても、「独島は我が領土」としか言わない。
 
「日本は侵略国家」だって?! じゃあまずの第一大邦丸事件を説明してもらいましょうかannoy

それにしても日本のマスコミが、この李承晩ラインでの悲惨な拿捕事件のことを詳しく報じないのは何故なんでしょうsign02
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これ、まだほんの

60年ほどの前の話す。。。


    • 5. 名無しさん
    • 2014年07月17日 21:51
    • 【韓国と在日&帰化人が必死に隠したがってる事実】
      h ttp://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/2013-08-14-1


      戦後になっても、3万人が虐殺された「済州島四・三事件」や、「保導連盟事件」(30万人虐殺)、「国民防衛軍事件」(10万人虐殺)、そして400万人が死んだ朝鮮戦争などの迫害から逃れるための大量の難民が日本に密航し、当時の日本では社会問題になっていた。

      ではなぜ彼らに日本での特別在留許可が与えられることになったのか。原点は「李承晩ライン」いわゆる強盗ラインだ。1952年1月18日、朝鮮戦争下の韓国政府は、サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に、突如としてマッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインの宣言を行った。竹島問題の原点である。

      これに対し日米両政府は非難の声を挙げたがその解決には長い道のりを要することとなった。13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。

      李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を放免し、在留特別許可を与えたのである。これが在留特別許可の原点。

      一方、韓国政府は日本人抑留者の返還には同意したが、日本政府が摘発した韓国人密入国者、重大犯罪者、政治犯等の強制送還は拒絶し、日本国内に自由に解放するよう要求した。この日本国内に自由解放された密入国者、重大犯罪者、これがヤクザの原点である。

      また人質を盾に日韓条約を韓国に圧倒的有利な内容で締結させた行為。これらの事実がオープンになり、日本国民すべてが知ることとなれば、確かに無事では済まないでしょうな。


      日本人漁師を人質に在日の在留許可を無理矢理出させたクズ鮮人ども。

    • 6. 名無しさん
    • 2014年07月17日 21:56
    • 【朝鮮人の敗戦利権とGHQと共産党 ロッテの正体】
      h ttp://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2551.html


      ★《焼跡・闇市からの飛翔》
      李煕健氏は闇市で培ったビジネス感覚と交渉力で 頭角を表し、1960年12月に設立された日韓経済協会の理事に名を連ねるようになった。

      国交回復に向け、韓日経済交流を民間レベルで推進する事を目的に設立された団体であったが、顧問に足立正日本商工会議所会頭、会長には植村甲午郎経団連会長など経済界の大物がズラリと並び、韓国側もロッテの辛格浩社長らが理事に名を連ねていた。



      「西日本最大の紡績王」と呼ばれた阪本栄一こと徐甲虎

      ライバル社を次々と潰したロッテ創業者の重光武雄こと辛格浩

      彼らに共通するのは、敗戦後の日本で一代で財を成した経緯の怪しさ!



      「戦争末期の物資がない時代に、どうやって旋盤用の油の原料を手に入れたのか。
      さらには、重光は戦争が終わってすぐに、石鹸や化粧品をつくり始めている。
      原料の油脂はどうしたのか。闇物資を調達するしかない。
      どうもこの頃、調達に町井が介在していた節がある」


      詳しくはリンク先で。

      >ライバル社を次々と潰したロッテ創業者の重光武雄こと辛格浩


      グリコ・森永事件 wikipediaより
      h ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E6%A3%AE%E6%B0%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

      知れば知る程に(在日・帰化人・混血含む)南北朝鮮人には嫌悪感が湧くわ。

    • 7. 名無しさん
    • 2014年07月17日 22:00
    • 【在日・帰化朝鮮人のおぞましき原点(朝鮮進駐軍)】
      h ttp://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/2012-09-04-1


      ここの項は、前回記述の古老と、小生の母、複数のホームページに共通する史実を如実に物語るものとして引用させていただいた談話である。読みにくいかとは思ったが原文のままにした。現在このHPは何者かによって遮断されている。


      終戦後の第三國人どもは本當に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた。斯うした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商賣を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう

      取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから當時は物不足で、賣る方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い。

      警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。

      (録取者註 當時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の來襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との聯絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚擧に暇有りませんでした)。


第一大邦丸事件.wmv

2013/02/10 に公開

第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、1953年2月4日に公海上(済­州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域)で操業中であった福岡の漁船­『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運­号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、­その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾して死亡した事件である。



日本の第三興洋丸が韓国側に拿捕された当時の映像 ‐ ニコニコ動画原宿


2012/08/27 に公開

『竹島を韓国に奪われた経緯』 韓国は竹島周辺で漁業をしていた日本の船舶を漁船に擬装した武装船で警告なしに機関銃­により射殺、拿捕。日本人捕虜には地獄の様な拷問を繰り返した。 328隻を拿捕、漁民3929人を拉致監禁、日本人44人を虐殺。

日本の第三興洋丸が韓国側に拿捕された当時の映像
3分13秒に日本人捕虜らしき人物が拷問を受けた傷をさらし黒こげになってる姿が映っ
­てます。

「타케시마를 한국에 빼앗긴 경위」한국은 타케시마 주변에서 어업을 하고 있던 일본의 선박을 어선에 위장 한 무장선으로 경고없이 기관총에 의해 사살, 나포. 일본인 포로에게는 지옥과 같은 고문을 반복했다. 328척을 나포, 어민 3929명을 납치 감금, 일본인 44명을 학살.
일본의 제3흥양환이 한국측에 나포된 당시의 영상
3분 13초에 일본인 포로 같은 인물이 고문을 받은 상처를 쬐어 흑눌음이 되어있는 차림이 어울리고 있습니다.



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