米金融業界の大物
レオ・メラメド氏安倍首相と面会
「日本人に救われた…」生存者が語る
「命のビザ」CMEの玄関先には
世界の先物取引は
大阪堂島から始まったとある
アメリカ金融業界の大物、レオ・メラメド氏安倍首相と面会
「日本人に救われた…」生存者が語る「命のビザ」
1日に安倍首相と面会したアメリカ金融業界の大物、レオ・メラメド氏は、
第二次世界大戦のさなか、日本人外交官・杉原千畝が発給したビザで命を救われた多くのユダヤ人のうちの1人。
今も語り継がれる「命のビザ」。生存者が語ったメッセージとは。
「金融市場の伝説」は、日本のオスカー・シンドラー杉浦千畝に命を救われた
レオ・メラメドは、シカゴの金融先物市場を創設した伝説的な人物として、現在でも広く尊敬を集めている。
1970年代に、彼によって多くのデリバティブ商品が取り扱われることになった「シカゴ・マーカンタイル取引所」は、先物取引やオプション取引の世界的な中心地だ。(写真下)
世界最大のCME 「シカゴ・マーカンタイル取引所」
CME(シカゴ・マーカンタイル取引所)は、取引量世界最大を誇る商品先物取引所及び金融先物取引所である。
レオ・メラメド氏は、大阪の堂島の先物取引所のシステムをベースにCMEで金利、通貨、株価指数などの金融先物を作り出し現在の地位を築いた。
CMEに見学にいくと、
アナウンスで、まず世界の先物取引の発祥地である堂島市場の説明が流される。
その後にCMEの説明が始まる。
またCMEの玄関先には、
「世界の先物取引は、大阪堂島から始まった。」
という内容の金属製のプレートが誇らしげに掲げられている。
もちろん、これらはすべてレオ・メラメド名誉会長の指示で、行われたものである
レオ・メラメド名誉会長は、日本の経済が好調だった頃に、CMEを訪れた日本の業界関係者が、
「アメリカの先物取引はやっぱり凄い」とか
「日本は先物取引では永遠にアメリカには追いつけない」
「人種的に日本人には無理、やっぱり白人は凄い」・・・などと言っているのを聞いて、こう言ったという。
「皆さん、世界の先物取引は大阪堂島から始まったのをご存じですか?
現在の最先端の先物取引のシステムも堂島のシステムをマネしてできたもので、
堂島のシステムがなかったら、生まれなかったのです。
日本の皆さんは非常に謙虚だ。それはここアメリカでも非常に有名だし、素晴らしいことです。
ただ、自国の生んだ素晴らしい文化まで否定するのは賛成できません。
もっと自国の文化に誇りをもつべきだと思います」
こう言われた日本人達は、非常に恥ずかしそうにしていたという。
... 日本は、たとえば工業技術の面では、今も世界の中で飛び抜けた存在感を示しているわけです。
しかし、金融 ... たとえば“先物の父”と呼ばれるレオ・メラメド氏(米国シカゴ・マーカンタイル取引所グループ名誉会長)なども、「堂島米会所こそ先物の故郷である」とはっきりと認めています
ポーランドからの脱出
当時のリトアニアはソ連に占領されていたが、各国の領事館・大使館はソ連によって閉鎖を命じられたために、業務を続けていた数少ない日本領事館に難民が殺到することになる。人々は、ナチスとソ連の脅威によって自らの命が危機にさらされていることに気付いており、必死の想いで領事館にビザ発行を求めたのだ。ユダヤ人迫害の事実を知っていた杉浦は、外務省から厳しい命令を受けながらも、それらを無視してビザを書き続けた。彼は、いよいよ領事館の閉鎖命令を無視できなくなってからも、ホテルや列車でビザを発給し続けた。
弁護士から「市場の伝説」に
こうして多くの難民とともにビザの発給を受けたメラメド一家も、シベリアを経由して日本へ脱出することに成功したその後、1941年に海を渡ってアメリカ・シカゴに住むことになったメラメドは、法律を学ぶことになる。1965年まで弁護士を務めた後、67年にシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)のボードメンバーに選ばれた彼は、69年にその会長へと就任する。その後70年代にかけてメルメドが、金融商品や先物取引などの積極的な取り組みを進めたことで、CME はこうした分野での世界的な地位を築いていく。
現在彼は、CME Groupのボードメンバーとともに、自身のコンサルティング会社でCEOをつとめている。彼の功績は多くの経済人が認めるものであり、金融先物市場は「過去20年の最も重要な技術革新」であると言われるとともに、シカゴ・トリビューン誌はメラメドを「20世紀のビジネスにおいて、最も重要なシカゴ市民10人」に選出している。
杉浦への感謝
メラメドは、現在でも杉浦がおこなった勇気ある行動を賞賛することを忘れていない。自身の命を懸けてビザを発給し続けた行為を「奇跡」だと述べるメラメドは、「それは一人の男が、何が正しくて何が間違っているかを理解して行動し、立ち上がったことによって生まれた」と述べる。
政府や外務省の命令に背き、厳しい非難を受ける中でビザの発給をおこなった杉浦は、日本に戻ってからは不遇の後半生を過ごすことになる。政府によって公式に名誉が回復されたのは、2000年だった。
ソース: http://newclassic.jp/16915
(詳しくは動画で)
CMEメラメド名誉会長=日本のLNG先物市場創設を支援、安倍首相と面会へ
シカゴでの学生時代、法律を学んだメラメド氏は、学業の合間にアルバイトでフューチャーズ(先物)ビジネスの世界に飛び込んだ。大学卒業後、同氏は地元で弁護士として活躍したが「知的興奮を与えてくれるやりがいのある仕事は先物だ」と、弁護士生活にピリオドを打ち、フューチャーズ業界への転身を図った。
その後、めきめきと頭角を現していったメラメド氏は1969年、シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)会長に就任。1972年に世界初となる通貨先物取引の導入、1992年にグローベックス(24時間電子取引)の推進など、次々とイノベーションに取り組んだ。名誉会長となってからも、ライバルであったシカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)との合併、その後、ニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)を傘下に収め、CMEグループ創設に影響力を発揮した。小規模な農産物取引所であったCMEを世界最大規模のデリバティブ取引所へと育て上げたことから「先物業界のベーブ・ルース」、「金融先物の父」と呼ばれている。
ところで、メラメド氏は日本との不思議な縁で結ばれている。同氏は1933年、ポーランドのユダヤ人家庭に生まれた。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を逃れるため、家族とともにポーランドを脱出、リトアニアに逃亡した。当時、リトアニアの日本領事館で外交官として赴任していたのが杉原千畝・領事代理だった。杉原氏は本国から通過ビザ(査証)の発給を止められていたにもかかわらず、自らの意思で6,000枚以上のビザを発給した。この「命のビザ」発給で九死に一生を得たなかの一人がメラメド氏だった。生き延びたメラメド氏は、家族とともに日本などを経由して米国に移住した。
命のビザ 杉原千畝
【ニュースの裏側】 元外務省が暴露!杉原千畝の「命のビザ」を歪曲
2014/05/18 に公開
ユダヤ人の亡命に尽力した杉原千畝さんは日本の誇りですが、その事実は歪曲されています。 杉原千畝さんは日本政府の反対を押し切って、ビザを発行したことになっていますが、外務省とはいえ、一個人でビザを発行できる... 杉原千畝 命のビザ 6千人のユダヤ人を救った日本人外交官「日本のシンドラー」】
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等... 元駐ウクライナ大使の馬渕睦夫さんが、在日の反日勢力がテレビ局などの放送業界を牛耳っている実態を暴露しています。 公共放送の職員に日本人以外がなるのはあってはならないことなのに、それでも在日韓国・朝鮮人が放送界を牛耳っています。 公共放送がこの有様なので、民間放送局にも在日が入り込んでいます。 諸外国では民間放送で...
6000人のビザ、杉原 千畝ビデオ
2011/08/30 にアップロード