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日本の蔑称・倭館がなぜ地名に残っているのか? その歴史を紐解くと驚きの事実が…

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日本の蔑称・倭館がなぜ地名に残っているのか? その歴史を紐解くと驚きの事実が…

【藤本欣也の韓国探訪】


「倭館」と書いて韓国語でウェグァンと読む。韓国で「倭」は日本の蔑称だから、「日本の奴らの住むところ」といった意味だ。そんな変な言葉を地名にした町が、慶尚北道(キョンサンプクト)にある。日本人がたくさん住んでいるわけでもないのに、どうしてそんな名前が付いたのか。倭館を訪ねた。(韓国南部・倭館 藤本欣也、写真も)
 実は、倭館は初めてではない。韓国に留学していた1989年9月、釜山からソウルまで徒歩旅行をしたことがある。その際、朝鮮半島有数の大河、洛東江(ナクトンガン)に面したこの町を通ったのだ。夜9時すぎ、倭館付近の線路沿いを歩いていたときのこと。前方から大きな貨物列車がやってきた。
 「何だろう」と思い、目をこらしてビックリした。暗闇から姿を現したのが、ジープなど軍用車両ばかりだったからだ。戦争前夜のような錯覚に陥り、腰を抜かしそうになったのを覚えている。
 あれから27年-。気になる倭館に再び入った。
□ □
 韓国第3の都市といわれる大邱(テグ)の中心部から北西へ約25キロ行ったところに、慶尚北道漆谷(チルコク)郡倭館がある。人口約3万人。
 倭館など郡内の歴史に関する資料が豊富な漆谷文化院を訪ねた。
「韓国で倭館という名前が地名として使われているのは漆谷郡の倭館だけです」。事務局長の孫京姫(ソン・ギョンヒ)さんが説明してくれた。
 そもそも倭館とは、主に14世紀以降の李氏朝鮮時代に設けられた日本人向けの客館や日本人居留地を指す。漆谷文化院によると、交易、接待、宿泊などを目的に設置された。「当時、朝鮮を訪れる日本人の中には『倭寇』と化して略奪を行う者が少なくなく、その懐柔策の意味もあったようです」(孫事務局長)。
 倭館は現在のソウルや釜山などのほか、ソウルへ向かう水上交通路として利用されていた洛東江沿いにもいくつかあった。その1つが漆谷郡の倭館である。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際には、秀吉軍の物資の集積拠点になったとされる。しかし戦役ですべて破壊され、当時の跡は何も残っていない。それなのに、なぜ地名だけが現代まで続いているのか。
 漆谷郷土文化研究所の張永福(チャン・ヨンボク)所長(76)に聞くと、意外な答えが返ってきた。
 「施設の名称ではなく、地名としての倭館はそれほど歴史が古くないんですよ。110年余りにすぎません」
 張所長によると、現在のソウルと釜山を結ぶ鉄道の敷設権を得ていた日本によって、1905年に京釜線が開通。洛東江に469メートルの鉄橋が架けられ、駅も設置されることになった。その際、駅名に採用されたのが「倭館」だった。
 なぜ、日本人がこの名前を選んだのかは定かではない。以降、巴彌(パミ)と呼ばれていた地名が倭館に変わり、郵便局や学校の名前に倭館が冠せられるようになっていく。
 しかし独立後の韓国は、日本的なもの、たとえば歌や映画などの日本文化を禁止したほか、日本統治時代の建物などを取り壊した。倭館という名を変えようという動きはなかったのか。
 「もちろん、ありました。『印象が非常に悪い』という理由で、90年代ごろに改称を求める動きが市民レベルで起きました。でも結局、大きな運動にならず、改称は実現しなかったんですね」(張所長)
 洛東江に架かる倭館鉄橋のたもとに立ってみた。89年に訪れた時には、別の橋が整備されていて、この倭館鉄橋はさびつき、一部が破壊されて川に沈んだままだった。今では補修されて歩行者・自転車用の橋となっている。
 倭館鉄橋の入り口に、「護国の橋」と刻まれた碑があった。倭館と護国とは容易にイメージが結びつかない。しかしそこには、この町がもつ別の歴史が秘められていた。
□ □
 鉄橋から川沿いに車で5分ほど走ると、丘の上に巨大な建物が見えた。漆谷護国平和記念館である。韓国で「護国」と言えば、対北朝鮮を意味することが多い。一帯は朝鮮戦争の激戦地だったのだ。
 50年6月25日未明、北朝鮮の奇襲攻撃で始まった朝鮮戦争。北朝鮮軍は3日でソウルを陥落させそのまま南進。不意を突かれて退却を続けた韓国軍、米軍が大邱、釜山を守るべく、防御ラインを築いたのがここ倭館の付近一帯だった。釜山が落ちれば、大韓民国が地図上から消滅するという絶体絶命の危機に追い込まれていた。
 攻防は8月1日から9月24日まで55日間続いた。北朝鮮軍の渡河を阻止すべく、米韓軍は8月3日夜、倭館鉄橋の一部を爆破。16日にはB29米爆撃機98機が川向こうの北朝鮮軍に絨毯爆撃を加えた。
 一方、態勢を立て直した北朝鮮軍が9月2日に総攻撃を開始。4日には倭館の防御ラインが突破された。しかし15日にマッカーサー元帥による仁川(インチョン)上陸作戦が成功し、形勢が逆転。北朝鮮軍は潰走を始めた。
 55日間の死傷者は倭館とその周辺だけで米韓軍約1万人、北朝鮮軍約1万7500人とされる。橋の爆破で、渡河できなかった避難民らにも大きな被害が出たという。
 「倭館鉄橋の爆破によって、北朝鮮軍の南進を食い止め、自由を守ることができたのです。すぐに防御線が崩壊していたら、仁川上陸作戦にも大きな影響を与えたでしょう。だからこそ、倭館鉄橋は大韓民国を救った『護国の橋』と呼ばれているのです」
 同記念館の30代の男性学芸員が説明してくれた。
 実は、倭館の地名を簡単には変えられない理由の1つがここにある。「朝鮮戦争で倭館という名前が世界的に知られた」(張所長)ためでもあったのだ。
 昨年10月にオープンした同記念館は、韓国軍や米軍など国連軍がいかに北朝鮮軍と戦って撃退したかが、武器などの展示物やパネル、映像などで理解できるようになっていた。
 建設計画が持ち上がったのは2008年、李明博(イ・ミョンバク)大統領時代のこと。現在の朴槿恵(パク・クネ)大統領と合わせ、米軍との絆を強調したい韓国・保守政権の狙いがうかがえる。
□ □
 倭館付近一帯で55日間の死闘を繰り広げたのは韓国軍第1師団である。師団長は当時29歳の白善●(=火へんに華)(ペク・ソンヨプ)准将。後に韓国初の陸軍大将に任じられた人物だ。倭館に近い多富洞(タブドン)の攻防戦で、「もし俺が退くようなことがあれば、俺を撃て」と言い残し、師団長自ら先頭に立って北朝鮮軍に突撃した逸話をもつ。
 その第1師団に所属し、倭館鉄橋の爆破音を山中で聞いた★俊九(ヨ・ジュング)氏(86)に、大邱市内で会った。多富洞では昼夜を問わず戦闘が行われたという。
 「夜は手を前につき出しながらゆっくり前進した。暗闇の中、触れた相手の頭髪が短かったら北朝鮮兵士だ。すぐ引き金を引いた」
 9人で構成する部隊のうち、1回の戦闘で生きて戻れたのは3、4人だったという。自らも爆弾の破片を浴びて負傷した。
 「とにかく山中は暑かった。のどが渇いて仕方がなかった-」。時には、生き延びるために戦友の血も飲んだ。
 55日間の攻防戦の後、敗走する北朝鮮軍を追って北へ進撃、10月には平壌入城を果たしている。
□ □
 倭館市場、倭館漢方医院、倭館支店、倭館自動車、倭館小公園…。
 町には「倭」が氾濫していた。住民たちはどう思っているのだろうか。
 「子供のころ、山で遊んでいると、人骨をよく見つけたものだ。朝鮮戦争で死んだ兵士のものだろうね」と話すタクシー運転手の朴グァンド氏(59)は、倭館という故郷の名前について、「良いことも悪いことも歴史をそのまま受け継ぐべきだ。名前を変えても歴史が変わるわけではない」と語る。
 韓国陸軍に志願して入隊した崔(チェ)ビョンユン氏(24)も、「町の名前に違和感を覚えたことはありません。生まれ故郷ですから」と笑う。
 話を聞いた住民からは、「改称すべきだ」という意見を聞くことはできなかった。そもそも、倭館という名前の由来を正確に把握している人がいなかった。
 漢字を知らない世代が増えていることも関係しているのかもしれない。「倭」が日本を指すことは知っていても、蔑称とは思わない若者が少なくないようだ。
 女子大生の李(イ)スンヒョンさん(20)に、「倭館の由来について知っていますか」と質問したときの答えにも驚かされた。
 「朝鮮戦争のとき、日本人がたくさん住んでいたから、倭館と呼ばれるようになったと聞いたことがあります…」
 「日本」と「朝鮮戦争」という倭館がもつ2つの歴史が強引にミックスされ、とんでもない“伝説”が生まれていた。
□ □
 「55日間、韓米連合軍が力を合わせ、北朝鮮の挑発を撃退した…米軍と漆谷郡との血盟の関係が永遠に続くことを期待する」
 漆谷郷土史学会が2011年に発刊した『倭館100年史』に、「米軍部隊」と題する文章があり、こう記されてあった。
 現代の倭館にはもう一つ別の顔がある。米軍基地を抱える街なのだ。駐留は1960年に始まった。倭館が釜山とソウルを結ぶ京釜鉄道、国道、洛東江沿いに位置する戦略的要衝である点は、朝鮮戦争当時と何も変わっていない。
 万が一、第二次朝鮮戦争が勃発した場合、倭館は米韓軍の兵站基地・物資の集積拠点と化す見通しだ。釜山などから陸揚げされた軍事物資が続々と運び込まれるだろう。
 27年前に遭遇した、あの巨大な黒い貨物列車がそのことを如実に物語っている。
★は口の下に口。呂のノがない字

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倭館小学校裏に残る日本式家屋

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倭館駅に停まる米第25輸送大隊の貨車

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洛東江に架かる倭館鉄橋。手前から2つ目のアーチの欠けた部分が朝鮮戦争で爆破された。1993年に復元

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漆谷護国平和記念館前を流れる洛東江。朝鮮戦争に部隊を派遣した国々の国旗が立つ

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倭館にある漆谷護国平和記念館

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朝鮮戦争で北朝鮮の朝鮮人民軍と戦った★俊九氏 ★は、口の下に口。呂のノがない字





























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