https://twitter.com/aritayoshifu/status/711189147268984832
有田芳生
@aritayoshifu
名古屋の金山駅前で「日本のこころ」街宣車で演説をしている参議院選挙予定候補者がいた。
「南京大虐殺30万人はデマ」との主張。当時の人口が20万人だったからという。
無知。
周辺もふくめ160万人が問題とされた人口だ。
「ヘイトスピーチをなくそう」号で目の前を通過。デマを否定しておいた。
21:54 - 2016年3月19日
>「南京大虐殺30万人はデマ」との主張。当時の人口が20万人だったからという。
>無知。
>周辺もふくめ160万人が問題とされた人口だ。
無知(無恥)なのは、有田芳生の方だ!
有田芳生は、どこまでの周辺を含めて「人口160万人」などと言っているのか、全く理解不可能だ。
1937年12月の南京城周辺地図
1937年12月の南京戦直前の人口は、南京城壁の周辺も含めて【約20万人】で間違いない!
南京の人口は1937年に支那事変が始まる前には約100万だったが、その後南京市民は南京戦が始まるまでに日本軍占領地の上海などに避難したため、1937年12月13日の南京陥落当時の南京の人口は約20万人だった。
最初に、南京の人口推移から。
▽1937年11月~12月の南京の人口推移▽
1937年前半「100万人超」
(支那事変勃発前)
1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)
11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令
12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)
12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令
12月10日「約20万」
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)
12月13日「約20万」
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
▽陥落直前の南京の人口に関する資料▽
――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
スティール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
――――――――――
以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いない!
なお、南京陥落から1か月後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。
そして、その20万人は、全員が安全区(難民区)に避難していた。
支那軍は、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)を行った。
支那軍は、南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。★重要★
したがって、まずは、南京城壁の周辺に一般住民は全く居なかった。
次に、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜、南京に残った約20万人の善良な市民は全て安全区に避難していた。
つまり、南京城内についても、安全区以外は無人だった。★重要★
――――――――――
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令
12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令
――――――――――
南京市長や支那軍司令長官の命令に逆らって一般市民が危険な場所に残っていたことは有りえない。
▼裏付け資料▼
1937年
12月7日
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)
12月7日
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂が広まり、中華門の近くに住む住民はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押し寄せてはいるが、こんなに暗くてはもう泊まるところがみつからない。
(ラーベの日記P100)
12月8日
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に集結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
NYタイムズ12/8(アメリカ資料編P390)
12月8日
把江門を通って江岸に出て行くのは今でも容易であるが、 中国人はそこから城内に入る事を許されていない。昨夜警察官が、城壁外部の下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。
米大使館報告(アメリカ資料編P95)
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
(南京事件の日々P40)
12月9日
今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。(略)AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。
(南京事件の日々P41)
12月10日
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)
12月11日
警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(アメリカ資料編P101~102)
12月12日
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)
12月13日
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
12月13日
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2~3人いるだけになりました。中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは確かめることができませんでした。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」
▼南京城内の安全区以外が無人だったことの裏付け▼
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南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
No.8418
安全区内にしか市民がいなかった(市民であって中国兵や負傷兵を看護する従軍看護婦でないことに注意)という説は日本「南京」学会理事の冨澤繁信氏が強く主張しています。
その根拠は冨澤氏の著書『南京事件の核心』(展転社)に詳しく論じられています。
一部抜粋しますと、
・・・蒋介石の宣伝部の顧問であった、ティンパーリという人が「南京事件」を諸外国に宣伝するために、『戦争とは何か』という本を日本軍南京占領の翌年(1938年)に出版した。この本の中には「南京事件」のたくさんの事例が集められている。この事例の実質的編纂者であり、南京大学の教授で、かつ蒋介石の顧問であったベイツという宣教師が、この事例について次のように言っている。「ここに記録された事件は南京安全地帯内で起きたものだけであり、南京のこれ以外の場所は1月末まで事実上の無人地帯となっていたのであって、此の期間中、殆ど外国人の目撃者はなかった。」(『戦争とは何か』103頁)
(『南京事件の核心』冨澤繁信著 展転社)
一部の虐殺派の人々はラーベ日記に一月中旬、安全区外で5万人の難民が発見されたと記述されていることを以って安全区外無人説を否定する向きもありますが、以下の理由により根拠薄弱です。
1.国際委員会の用意した収容所は全部あわせても5万人程度の収容力しかなく、それ以外の市民についてはその住居を掌握できていた訳ではない。
ラーベが発見した5万人が、安全区から自宅へ帰還しようとしていた人々でないと断定する根拠は無い。
日本軍は1月上旬より市民に自宅への帰還を呼びかけている。
2.また、良民証の発行により、身元の確認された南京市民は城外より城内の元の住居へ帰還が可能となっており、ラーベの発見した5万人が城外より帰還した市民ではないという根拠も無い。
『南京安全地帯の記録』第23号 布告
本司令官は12月24日より、全ての難民と市民に対し良民証を発給する。これは居住と就労の便宜だけのためのものである。・・・この調査の後には良民証を持たない者の南京城内居住は許されない。・・・
昭和12年12月22日
日本陸軍 南京憲兵司令官
(『南京安全地帯の記録』完訳と研究 冨澤繁信著 展転社より抜粋)
3.国際委員会の主要業務は難民に対する食糧の配給であり、人数分の食料が供給されるよう、日本に対してたびたび苦情を申し立てている。
この配給人数について、良民証発行による人口調査の結果、国際委員会は1月14日の第41号報告で従来の20万人から25万人に上方修正しているが、これ以降、配給対象人数の上方修正は行われていない。
ラーベにより5万人もの難民が発見されたなら、新たに増加供給の要求が無ければ不合理であり、そもそも5万人発見の記録そのものの信憑性が乏しい。
『南京安全地帯の記録』第41号 福田氏への手紙
1938年1月14日
・・・我々は貴軍が、10歳以下の子供、及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しております。すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります。この住民を通常の米の配給で養うには・・・
ジョン・H・D・ラーベ 委員長
『南京安全地帯の記録』第54号 プリドウブリューン氏への手紙
1938年1月28日
・・・南京25万の難民のうち、大部分は市内及び近郊の大規模な火災のために家がありません。・・・
ジョン・H・D・ラーベ 委員長
(『南京安全地帯の記録』完訳と研究 冨澤繁信著 展転社より抜粋)
なお、25万人という数字は1/18、1/19、1/22の記録にも見られるので、ラーベに発見されてから直ちに日本軍に殺されたということはあり得ないw
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以上、1937年12月の南京戦直前の人口は、南京城壁の周辺も含めて【約20万人】で間違いないことの証明完了!
ハイ、論破♪
>「ヘイトスピーチをなくそう」号で目の前を通過。デマを否定しておいた。
有田芳生こそ、無知な上に恥知らずだ!
有田芳生は、私に反論があるなら、反論してみなさい。
まー、絶対に無理だけど。
ちなみに、有田芳生の「ヘイトスピーチをなくそう」号というのは、これ↓
なお、3月20日付当ブログ記事でも述べたとおり、1937年12月の南京戦において、日本軍が非戦闘員を殺害した証拠は皆無であり、そのような事実はなかった(虐殺犠牲者数はゼロだ)。
●南京大虐殺完全否定のまとめ
日本軍による南京市民虐殺はなかった(0人)。
まず、南京市民の大半は、日本軍が南京を陥落させた1937年12月13日以前に南京を脱出して日本軍が占領した上海などに避難していた。
南京に残った約20万人の南京市民も全員が安全区に避難し、安全区以外の南京城内に善良な市民は誰一人として居なかった。
南京城内の安全区以外には誰も居なかったのだから、そこで虐殺など起こるわけがない。
次に、南京に残った全市民が集められていた安全区内の状況だが、12月13日に日本軍が南京を陥落させる前と比べ、日本軍占領後の南京安全区の人口は増加した。
日本軍が占領した上海などに避難していた南京市民が徐々に戻って来たのだ。
陥落から何日か経ち、安全区内で日本軍による約10件の強姦事件や同程度の掠奪事件が発生したが、これら事件は、日本の軍関係の裁判を司る法務部で把握されている。
日本軍将兵は道端で拾った靴を持ち帰っただけで掠奪事件として軍法会議にかけられたりしていたが、「虐殺」事件は南京に居た憲兵隊などに通報されたことも全くなかった。
また、15人の安全区国際委員会メンバーや100人を超す日本人報道関係者などは南京に長期間滞在していたが、誰も1度も日本軍による虐殺を目撃しなかった。
日本軍による南京占領後、南京の治安が回復すると、日本軍が占領していた上海などに避難していた南京市民が戻って来て南京の人口は増加した。
虐殺事件に関しては、目撃が0件で、現地の憲兵隊などへの通報も、憲兵隊などによる発見もなかった。
更に、支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったと言わなかった。
支那軍による虐殺や戦闘中の誤爆による事故はあっても、犯人や被害者が特定されるような日本軍による虐殺事件はなかった。
最後に、戦後しばらく経ってから自白した元日本兵が何人か居たが、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されている。
よって、日本軍による南京虐殺事件は0件だった。
以上のとおり「南京大虐殺」については、事実関係として完全に虚構(捏造)であり、日本軍によって虐殺された南京市民はゼロ(0人)だった。
この記事は、FC2ブログ「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」の約1日遅れのコピーです。
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