日本に戦争を仕掛けたルーズベルトは狂人!
米国歴史学者真っ青の歴史を書いた回顧録
第31代アメリカ大統領フーバー米大統領
管理人注 :
FDR=フランクリン・デラノ・ルーズベルト/第32代アメリカ大統領
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FDRは狂人と結論づけたのが
フーバー大統領だった
米国の歴史学者は真っ青になる本物の歴史を
書いた回顧録の解説本
稲村公望、藤井厳喜、茂木弘道・鼎談
序文・加瀬英明『日米戦争を起こしたのは誰か』(勉誠出版)
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日米戦争を起こしたのは
「かの狂人の欲望だった」と
「かの狂人の欲望だった」と
が言った。
『狂人』? それはいうまでのないが
日本に戦争を仕掛けたフランクリン・ルーズベルトだった。
2011年になってようやくフーバー大統領の大著が刊行された。
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原題は『THE FREEDOM BETRAYED』、
(歴史家のジョージ・ナシュ編集となっており、フーバー研究所からでている。
ご興味の向きはキンドル版でも、アマゾンからも原書が購入できる)
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残念だが翻訳がまだ出ない。
しかししびれを切らして、すでに1000ページをこえる原著を精密に読んだ三名が、
このフーバーの視点を読み解きながら、FDRが引き起こした所謂「太平洋戦争」の動機に迫る。
このフーバーの視点を読み解きながら、FDRが引き起こした所謂「太平洋戦争」の動機に迫る。
稲村公望、藤井厳喜、茂木弘道の三人は英語遣いであり、序文を書いている加瀬英明とともに最強のチームによる解説が、この『日米戦争を起こしたのは誰か』(勉誠出版)に結実した。
副題は「ルーズベルトの罪状、フーバー大統領回顧録を論ず」とあって、序文を外交評論家の加瀬英明氏が書いている。
じつは何年か前、著者のひとりである稲村氏と立ち話のおりに、こういう本が出ていると聞いて、興味をもったところ、氏は12年2月の『月刊日本』に、そのさわりを書かれた。
それで翻訳がでるのを楽しみにしていたが、何か妨害する勢力でもあるのだろうか、翻訳本はまだ出ない状況である。
いやそもそも本書の原文とて戦争が終わって65年後にやっとのこと米国で日の目を見たのだ。
米国の歴史学者は真っ青になる内容だからである。
米国の歴史学者は真っ青になる内容だからである。
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アメリカ合衆国 第31代大統領Clik here to view.
さきに小誌でもハミルトン・フィッシュのFDR批判本(『ルーズベルトの開戦責任』、草思社、渡邊惣樹訳)を詳細に紹介したことがあるが、ハミルトンは戦前、公表をためらった。
なぜならベトナムでアメリカ人の若者が血を流して、『自由』とかいう幻像のために闘っていた環境下で、そういう本は出すわけにはいかなかったからだ。
フーバーは皮肉にも大恐慌の時期を重なった任期のため、歴史学者が軽視しているが、生前に30冊の著作を残したインテリでもあり、歴史学にも通暁していた。かれは貧困の環境に育ち、鉱山技師として艱難辛苦のはてに、カリフォルニアの鉱山ビジネスで大成功をおさめた。
それゆえフーバーはワシントンの政界主流には知り合いが少なかった。
FDRは自身がコミュニストであり、ソ連を助け、中国には毛沢東に政権を譲り渡し、
ヨーロッパの半分をソ連に呉れてやった大馬鹿者だが、
フーバーはまさしく「狂人」と断定していたのだ。
ヨーロッパの半分をソ連に呉れてやった大馬鹿者だが、
フーバーはまさしく「狂人」と断定していたのだ。
フーバー大統領はまた鋭利な観察眼の持ち主でもあり、
中国人をこう批判している。
中国人をこう批判している。
「無能、不正直で、全員が詐欺師だ」
ニクソンは中国との外交関係を再開し、のちのカーター政権は国交を回復するまでにいたるが、ニクソン自身、最晩年の中国の躍進と軍国主義化を目撃し「われわれはひょっとしてフランケンシュタインを造ってしまったかも知れない」と自責にかられたともいう。鼎談のなかで政治学者の藤井厳喜氏が指摘している。
それにしても、真実が半世紀以上を閲したいまごろになった次々とでてくることにも問題があるが、マッカーサーは議会証言で『日本は自衛のために戦争に踏み切らざるを得なかったのだ』と言った。
そして、生前のフーバーとも会見した折に「あの狂人の欲望が日本に戦争をしかけた」という歴史の見方に賛意を示した。
原書ではFDRが犯した侵した19のミスが縷々述べられており、近衛内閣の和平案を受け入れていれば日米戦争はなかったし、広島・長崎への原爆投下は間違いであったこと、ヤルタ密約も根本的なアメリカ外交の失敗であることなどが指摘されている。
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西村眞悟の時事通信
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「最終的かつ不可逆的な解決」とは何か
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歴史戦という観点から本年を見れば、「攻撃の自由」は常に敵にあった。
我が国の内外で使われた「戦後70年」という用語は、日本悪者史観を展開して我が国を攻撃できるという戦略的用語であった。何故なら、この用語の「戦後」とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)の「戦後」に限定されており、この戦争は、
「ファシズム=ナチズム=軍国主義 対 自由民主主義陣営の戦争」
即ち、「悪 対 正義の戦争」で「正義が悪に勝った戦争」であり、
我が国は敗者つまり「悪」であった戦争であるからだ。
従って、あの邪悪な共産党独裁国家にして軍国主義かつ帝国主義そのものの中共(チャイナ)も、あたかも正義は我に有りと言わんばかりに対日戦勝利70年記念軍事パレードを打つことができた。そして、その中共に迎合してその軍事パレードを見学していた韓国大統領も朝から晩まで世界中で、「従軍慰安婦=性奴隷」を掲げて日本を非難することができた。
これに対して我が国は、八月の総理談話で「反省」と「おわび」を表明し、こともあろうに、あの村山富市談話を受け継いでいくと申したのである。そして暮れの十二月二十八日、韓国との間で従軍慰安婦問題に関して、総理が「反省」と「おわび」を表明して「最終合意」したのである。
以上の経過を概観すれば、本年(平成27年)は、歴史戦において最低レベルに落ちた年となったと言わざるをえない。村山富市や菅直人や○○等々が、靖国神社に参拝しないのは納得できる。
こんなのが参拝すれば神社が汚れるからである。
しかし、靖国神社に参拝できなかったのは痛恨の思いであります、と言った安倍晋三が、 村山富市談話を守ると言いまたもや靖国神社に参拝できずに終える本年は、やはり最低レベルに落ちたのだ。
外務省のもっともらしい言い訳、また、訳知り顔の中共と北朝鮮の脅威に基づく日韓最終決着の必要性論、に素直に納得する必要はない。最低レベルは最低レベルだ、この現実を見つめよう。
そこでこの最低レベルから、来年、如何にして上昇するのか、如何にして我が国は名誉と誇りを回復するのか、このことを強く考えねばならない。
総理も外務大臣も、この度の日韓合意を「最終的かつ不可逆的な解決」と言ったのである。これは何を意味するのか。来年にはこの問題は存在しない、ということではないか。
これが、「最終的・不可逆的解決」である。従って、年、如何に韓国内に反日デモが起ころうとも、韓国政府が如何にそのデモに迎合しようともさらに韓国と中共の反日連携がなされようとも、その連携が台湾やインドネシアに広がろうとも、我が国は断じて、平成二十七年十二月二十八日に「最終的かつ不可逆的な解決」に至ったことを堅持し、一切ぶれてはならない。
韓国の運命を決めるのは韓国人なのだから。これ、自業自得。
韓国の運命を決めるのは韓国人なのだから。これ、自業自得。
本年の最終段階でも日韓会談の意義は、かろうじて「この一点」に見いだせるのである。
来年こそは、「この一点」を堅持して、英霊と共に我が民族の歴史と誇りを取り戻さねばならない。
今、「英霊と共に」と書いた。その意味は、英霊は過去のある日付けの時に亡くなったのではなく、現在の日本と共にあるということである。
英霊と現在に断絶はないということである。この思ひが、歴史戦に勝ち、民族の誇りを子孫に伝える力である。
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1343回】
――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡84)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
▽
帰国まで残すところ10数日。病み上がりの体で轎に乗り、あるいは伴の者に支えられながら香港の街を歩き、別れの挨拶に出向いた。
たとえば4月6日にはシンガポールに旅立つ黒田清隆の許を表敬する。別れ際に「顧問(黒田)、若干の金を贈(くださ)れて曰く、聊かの藥餌の用に充てん、と。余、深く厚意を感ず」。イギリスが東洋経営の拠点として営々と建設に励む殖民地・香港で病に臥す岡を気遣い、これからイギリスが東洋に持つもう一つの植民地たるシンガポールに旅立とうという黒田清隆が見舞金を渡す。その時の両者の心境に思いを馳せる時、明治という時代の時代精神の一側面を垣間見せられたような気がする。
残り少ない香港の日々を惜しむかのように、岡は香港観察を続ける。
完備された監獄、整然と手入れされた植民地政庁の建物、競馬場、庭園と見紛うような西洋人墓地、英国駐留軍施設、花崗岩細工工場、完備された港湾施設、ヴィクトリア港を埋め尽す船舶など、どこにもイギリス植民地経営のノーハウが込められている。その一方で、「小さきこと蝸舎の若く、密なること蜂房の若」き家で生活する「中民」を、蚕棚に暮らす蚕、穴に蹲る蝦蟇に喩え、「復た人類の勝(た)える所に非ず」と記すことを忘れない。
28日、北村なる人物の「中土に貨幣無く、大いに國體を失する論」に耳を傾け綴った。
――「中土」は最も古くから国を立て、「明賢(けんじん)」を世に出している。だが古来、誰ひとりとして貨幣を鋳造し貿易の便を図った者はいない。それというのも「中人」はカネ儲けに必死で、ともかくも目先の利益に目敏いからだ。儲けのためなら糸一本、牛の毛一本も疎かにしない。だから貨幣を鋳造しようものなら、直ちに贋造しニセガネが氾濫してしまう。
法律で取り締まっても、禁ずることなどできはしない。誰もがニセガネを疑い、いちいち割ってホンモノかどうかを調べなければ使わないことになる。だからホンモノの銀塊を持ち歩いて、切り取って計ってから使うのも、贋造を疑うからだ。
この点について「米人維良氏」は、国土が広大で人口も多い「中土」において貨幣がないのに商人が困らないのは、政府にニセ札濫造を禁止する権限がないからであり、「純正貨幣」を作って人民から「信」を得るだけの「徳義」が政府にないからである、と説く。蓋し至言だ。(3月28日)――
人々は政府に「信」を置かず、政府には人々が納得して従うだけの「徳義」がない。経済規模が天文学的に拡大しても、紙幣の最高単位は相変わらず毛沢東の上半身が印刷されたシケた単位の「100元」でしかなく、不便・不合理極まりない。
1000元札、5000元札があっても不思議ではないのだが、
そうしたらそうしたで、あっという間に市場には1000元、5000元のニセ札が出回ってしまう。
そうしたらそうしたで、あっという間に市場には1000元、5000元のニセ札が出回ってしまう。
やはり人々は紙幣を発行する北京政府に「信」を置かず、共産党政権には人々が納得して従うだけの「徳義」はない。
こう考えれば確かに「維良(ウイリアム?)氏」の主張は正しい。だが、それは物事の半分しか示していない。じつは、彼の国では草民もまた互いに「信」を置かず、互いに納得し合えるような「徳義」を持ち合わせていないのではなかろうか。
であればこそ疑心暗鬼が渦巻き、かくして「信」が置け、とにもかくにも「徳義」を感ずることが出来るのは家族のみということになる。かくて家族主義は永遠に仏滅、いや不滅となるわけだ。
翌日は「意(おもう)に色(かおいろ)、稍や佳」。往診してくれたイギリス人医師も「大いに悦び、以て憂いに足る無し」と言い、今後は毎日往診しなくてもよかろう、と。これで帰国の船旅も何とか耐えられる。やや心が落ち着いたのだろう。
岡は旅行中の見聞を記したメモを取り出し、読み直し、改めて日記に「中土、士を取るの方を記」した。
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(Herbert Clark Hoover, 1874年8月10日 - 1964年10月20日)は、アメリカ合衆国の第31代大統領。
戦後、第33代大統領ハリー・S・トルーマンは、占領国の食料状況を視察させるため、フーヴァーを日本やドイツに派遣した。
1946年5月に占領下の日本を視察したフーヴァーは、東京で連合国軍総司令部のマッカーサーと会談した。その際フーヴァーはマッカーサーに対し、第32代大統領ルーズベルトを指して、太平洋戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘した[2][1]。
開戦前の1941年7月に行われた在米日本資産の凍結などの経済制裁については、「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語った[2][1]。
日本の食糧事情に関しては「食糧の輸入がなければ、日本国民に必要な食糧の数量は、ドイツの強制収容所並みからそれ以下になるだろう」とし、食糧援助をマッカーサーなどに進言した[2][1](その結果援助された物資は、ガリオア資金で買い付けられたので「ガリオア物資」と呼ばれている)。また対日政策についても連合国軍総司令部に助言している。
開戦前の1941年7月に行われた在米日本資産の凍結などの経済制裁については、「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語った[2][1]。
日本の食糧事情に関しては「食糧の輸入がなければ、日本国民に必要な食糧の数量は、ドイツの強制収容所並みからそれ以下になるだろう」とし、食糧援助をマッカーサーなどに進言した[2][1](その結果援助された物資は、ガリオア資金で買い付けられたので「ガリオア物資」と呼ばれている)。また対日政策についても連合国軍総司令部に助言している。
1946年から1947年にかけての冬にはドイツに派遣された(フーヴァー使節団)。フーヴァーはヘルマン・ゲーリングが使用した古い専用列車で西部ドイツ内を視察し、アメリカの占領政策に対して批判的な多くの報告書を作成し、ドイツ経済は「100年間で最低のレベルに沈んだ」[3]と語った。冷戦が激しくなるとフーヴァーは以前強く支持したアメリカ・フレンド奉仕委員会への支援を保留した。
1947年に第33代大統領トルーマンは行政部再編成委員会の委員にフーヴァーを任命し、議長に選出された。この委員会は後にフーヴァー委員会として知られるようになった。1953年には第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが同様の委員会の議長に任命した。2つの委員会は多くの非効率で不要な物を削減した。
死去[編集]
フーヴァーは大統領退任から31年と7ヶ月後の1964年10月20日の午前11時35分に、ニューヨークにて90歳で死去した。なお、彼は妻よりも20年長く生きた。その時点で、彼は歴代大統領中で退任後最も長生き[4]し、(退任後の諸活動により)没するまでに自らのパブリック・イメージを改善することができた。フーヴァーは妻と共にアイオワ州ウェスト・ブランチのハーバート・フーヴァー大統領図書館に埋葬された。フーヴァーの葬儀は「国葬」として行われ、前年のジョン・F・ケネディ、同年のダグラス・マッカーサーに続き行われた。
能力、評価[編集]
大恐慌のときに有効な手を打てなかったので、歴代大統領としての評価は低い。だが、自身が大統領になる前ウィルソン、ハーディング、クーリッジの下で閣僚として働き、第二次世界大戦後はトルーマン、アイゼンハワーの下で働いた。また1962年のキューバ危機では、当時生存していた3元大統領の1人としてケネディ大統領の状況説明会に参加している。ルーズベルト政権には参加こそしなかったが、ルーズベルトもフーヴァーが大統領になる前、「彼の下なら喜んで働きたい」と発言したほどである。こうして見ると、歴代大統領はそろってフーヴァーを高く評価していたことがわかる。彼は技師、経営者として非常に優秀であった。もし大統領時代に大恐慌に直面していなかったら(あるいは有効な手を打てていたら)、歴代大統領として高い評価を得ていた可能性も皆無ではない。 一般的に世界恐慌の時に何もしなった大統領のイメージがあるがそれは間違いで鉄道公社の救済や失業者に無償でお金を出すなど様々な対策を行っていた。