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[転載]南京攻略戦・兵士の証言「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」習は政権の正統性を「抗日戦争勝利」に求めている。産経は戦う。

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南京攻略戦・兵士の証言
城内空っぽ 誰もいなかった
虐殺あるはずない

習は政権の正統性を「抗日戦争勝利」に求めている。産経は戦う。


 中国共産党は政権の正統性を「抗日戦争勝利」に求めている。

2月5日には
「中国人民抗日戦争勝利70周年記念」と銘打った撮影隊の“出陣式”が「南京大虐殺記念館」で行われた。
 中国メディアによると、習は南京事件をナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺、広島・長崎への原爆投下と並ぶ「第二次世界大戦史における3大惨事」と位置づけている。「日本軍が引き起こした大虐殺」(習)との主張を展開するうえでも「30万人」の犠牲者数は必要なのだ。 

2015.2.15 15:12

歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(1)
「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」




「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」
 南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。
 少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、城内は一転して静寂に包まれていた。中に入ると、厚さが約40センチもある門扉の内側に、進入を阻むための土嚢(どのう)ががっちりと積まれていたのを覚えている。
 南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造りの平屋の民家が多かったが、どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。
 「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。

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住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。

南京自治委員会が生まれる
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日本兵を囲むほとんどが支那人 まるで解放軍だ
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日本占領後平和を取り戻した南京市内
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実に平和だ
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南京の嘘を記録せよ


ソース: http://www.sankei.com/premium/news/150215/prm1502150031-n1.htm

 当時の軍隊に欠かせない馬を管理する任務を帯び、前線部隊と行動をともにしてきた城は、戦闘の様子をつぶさに見てきた。
 多数の死傷者を出しながらも11月中旬に上海を攻略した日本軍は、長江(揚子江)の上流約300キロにある南京を目指した。当時、中華民国の首都だった南京は周囲を堅牢(けんろう)な城壁で囲まれ、約20の門があった。
 中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。

南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。
 上海攻略戦で杭州湾に敵前上陸した第6師団も、南京に向けて敵と交戦しながら進軍。南京の南側から攻撃に参加した。

 「それは激しか戦いでした」。城らの前には、高さ20メートルほどのれんが造りの城壁がそそり立っていた。城壁に構えた敵陣地からの攻撃、城壁の前に横たわった水濠(すいごう)が行く手を阻んだ。  「重砲や野砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」

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 戦後、東京裁判はこう断定した。

 「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1カ月で2万の強姦(ごうかん)事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」
 その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る。
 「城内では遺体も見とらんです」
 上海から南京に進軍する途中では、中国人の遺体を目撃している。塹壕(ざんごう)で何十人の中国兵が死んでいることもあった。
 「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです

 進軍は不眠不休で続き、夜が明けると敵兵約30人が目の前を歩いていたこともある。夜間に敵と交戦した後、同じ連隊の兵士が「多くの敵を斬った」と話しているのを聞いたこともあった。1週間ほど滞在した南京でも何かあれば仲間内で当然耳に入るはずだが、虐殺は一切聞いていない。

 城が所属した第6師団は熊本で編成された精鋭部隊で、中国では「世界で一番強い」と恐れられていた、という。その師団の一員だったことは、城らの誇りだった。だが、南京攻略時に師団長だった中将、谷寿(ひさ)夫は戦後、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。

 「哀れですばい。師団長は何もしとらんのに」
 城は憤りを隠せない。77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。
 「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進していく。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」
 戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。間もなく99歳を迎える城は、無数のしわが刻まれた手をかざしながら仲間の無念を代弁する。
 「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶(おとし)められるのは我慢ならんです」
 「抗戦勝利70年の今年こそ、南京市内の道路の名称には『抗戦』の要素をより多く取り入れるべきだ」
 南京市を省都とする江蘇省の行政諮問機関、政治協商会議(政協)の常務委員、徐菊英は先月、こんな提案を行った。
 「南京大虐殺記念館」と建設中の「抗戦勝利記念館」を結ぶ道を「抗戦路」と名付けるなど道路への命名は今年、相次ぎ行われる見通しだ。「南京事件」の生存者として“証言”した「李秀英」ら市民の名前を冠する案もある。

 「辛徳貝格路」との案もある。デンマーク出身の実業家で、1930年代に南京郊外のセメント工場に赴任した「シンドバーグ」の当て字だ。旧日本軍による攻略時に、2万人近い南京市民を工場などにかくまったという。昨年4月にはデンマーク女王、マルグレーテ2世が外国元首として初めて「南京大虐殺記念館」を訪問した。シンドバーグの逸話を手がかりに女王の南京訪問を要請したようだ。デンマークなど外国を巻き込み中国の国際的な立場を優位にする狙いがある。

 中国共産党は政権の正統性を「抗日戦争勝利」に求めている。2月5日には「中国人民抗日戦争勝利70周年記念」と銘打った撮影隊の“出陣式”が「南京大虐殺記念館」で行われた。
 これは政府機関の中国人民対外友好協会が主催する全国的なイベントで、全土から集められた10人以上のカメラマンが、抗日戦争に関する証言や史跡を記録し「8年の抗戦と民族の記憶」と題する写真集にまとめる。全土で巡回展示も行う。
 南京で出陣式を行ったことは、「抗日戦」の象徴的な土地として今年、南京を改めて強調する意図が感じられる。
 南京事件の犠牲者が「30万人」に上るとする説は中国の公式見解だ。
 「日本軍は野蛮にも南京に侵入し、残酷極まりない南京大虐殺事件を引き起こした。30万人の同胞が殺戮(さつりく)、無数の婦女が蹂躙(じゅうりん)殺害され、無数の子供が非業の死を遂げた。3分の1の建物が破壊され、大量の財物が略奪された」

 昨年12月13日、南京市で開かれた追悼式典。演説した国家主席、習近平は、事件の「凄惨(せいさん)さ」を繰り返し強調した。中国はこの日を「国家哀悼日」に定め、南京市などが主催してきた追悼式典を初めて国家主催とした。式典会場の「南京大虐殺記念館」の入り口には、「遭難者300000」と書かれたモニュメントが設置されている。

  中国外務省報道官、洪磊も1月15日の記者会見でこう述べた。

 「南京大虐殺は日本の軍国主義者が犯した残忍な犯罪であることに議論の余地はない。過去の侵略を覆そうとする試みは日本の国際的な信用を損なうだけだ」
 洪の発言は前日に共同通信が配信した記事に関してだった。共同の記事は、習の「30万人」発言に日本外務省が昨年12月、中国側に「適切でない」と申し入れたという内容だ。
 官房長官、菅義偉(すが・よしひで)は1月15日の記者会見で「わが国の考え方は事前に伝えるとともに、事後にもしかるべき申し入れを行っている」と、報道を事実上認めた。
 このやりとりは香港紙「文匯報」に掲載された。外交筋は、中国共産党寄りの同紙が報じたことについて、日本が事実をねじ曲げようとしていると対外的に訴えたいとの「中国政府の意図を感じる」と話す。
 中国は英字メディアでも自らの立場を積極的に宣伝している。
 9月3日に北京で習指導部発足後、初めてとなる軍事パレードを開催することについて、1月下旬に海外メディアが「対日牽制(けんせい)」「中国の軍事力を誇示」と伝えた。

これに1月29日付の中国の英字日刊紙チャイナ・デーリー米国版が反応した。「勝利パレードをめぐるばかげた意見」というタイトルで掲載された同紙の論評記事だ。
 筆者のルン・ピンは「中国では8年間の抗日戦で3千万人の犠牲者が出た。6週間の南京虐殺だけでも30万人が命を落とした。抵抗を通じ中国人民は反ファシスト戦勝利に中核的な役割を演じた」と訴えた。

 中国メディアによると、習は南京事件をナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺、広島・長崎への原爆投下と並ぶ「第二次世界大戦史における3大惨事」と位置づけている。「日本軍が引き起こした大虐殺」(習)との主張を展開するうえでも「30万人」の犠牲者数は必要なのだ。   (敬称略)
 ◇
 中国は「30万人虐殺」を喧伝(けんでん)するが、77年前、南京で将兵らが見た実像は大きく異なる。歴史戦第9部では数少ない元兵士らの証言を紡いでいく。   =続く

 http://www.sankei.com/premium/news/150215/prm1502150031-n7.html

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南京大虐殺は無い!>南昌市長より感謝状



南京大虐殺は捏造だった 自虐史観払拭




通州事件の真実 Sさんの体験談



通州事件


通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民のうち女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものがおおかった[1]


事件発生

日本軍守備隊への攻撃

1937年7月29日午前2時、3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍へ攻撃を開始、殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関を襲撃、日本軍は壊滅し、また日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺された[7]渡部昇一の主張によると、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている[9]
通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていたため留守部隊であり、藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、憲兵、兵站兵器部を合わせて110名程度であった[1]
張慶余、張研田の両保安隊は午前二時に攻撃を開始、長官公署を襲って殷汝耕を拉致した[7][1]。保安隊の装備が遥かに優れていたため、日本軍守備隊は死傷者が続出し、通州特務機関は全滅した[7][1]。守備隊長藤尾心一中尉と通州特務機関長細木繁中佐も戦死した。
当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている[10]

日本人居留民への暴虐行為

冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[1]

 7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた[1]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[1]

 第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた[1]

 帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[1]

 女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[1]

 カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[1]

 南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[1]

 当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[1]

 また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[1]

 鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた
[1]

 14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった[1]

 東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた
[1]


転載元: 復活! 強い日本へ!


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