心にもないことを言うな
花田紀凱の天下の暴論
5月の通常国会開会以来の朝日新聞の「平和安全法制」(むろん、朝日の表現は「安保法制」だ)に関する報道について調べて見た。いやヒドイものだ。社会面、政治面、いくらなんでも、ここまで片寄っているとは思わなかった。
この間(5月17日以来)、社説では反安保法制社説が37本。大詰めの9月に至っては9本。9月15日から21日までは7日連続。ちなみに毎日は(5月24日以来)48本だからもっとひどい。東京新聞は(5月27日以来)36本。
天声人語が(5月31日以来)25本。読者投稿「声」欄で53本。昨年の従軍慰安婦記事、謝罪、訂正以来、「声」欄はアリバイ的に朝日の論調に添わない投稿を時々、掲載するようになった。 朝日「声」欄投稿マニアの間では論調に反対する投稿の方が掲載される率が高いと言われてるらしい(むろん、冗談ですがね)。で、今回は、反対が42本、賛成が11本。その他、短歌俳句欄にも反安保法制作品が度々掲載されている。
つまり、朝日は紙面あげて、平和安全法制に反対しているのだ。
話を社説に戻す。9月に入ってからのタイトルをあげてみると、
<違憲法案に反対する>、<民意無視の採決やめよ>、<国会は国民の声を聞け>、<憲法を憲法でなくするのか>………。
深夜に成立した19日朝刊ではゼネラルエディターなる人物が1面でこう書いている。
<一体、自分たちはどこに連れていかれるのか、というどうしようもない不安(中略)それが安全保障法案に対する多くの人の気持ちだったのではないか>
こういうセンチメンタルな書き方が実に嫌だ。そんなに多くの人たちが、どうしようもない不安を抱えていたのだろうか。このゼネラルエディター氏はいったいどうやって、そんなに多くの人たちの不安がわかったのだろうか。その日の社説も「不安」という言葉を使っている。
<日本が大事にしてきたものが壊されてしまうという不安(中略)怒りと悔しさと今後に向けた決意がないまぜになったコールが夜を徹して響き続けた>
で、結語が、
<主催者一人ひとりの不断の努力が、この国の明日を希望で照らす>
クサイなあ。この論説委員氏、本気でこんなことを書いているのだろうか。
朝日の反安保法制報道についてはまだまだ書きたいことがあるのだが、16日のインターネットテレビ、櫻井よしこさんの「言論テレビ」で、櫻井さん、産経の阿比留瑠比さんとこの問題を論じるので、関心があればぜひ。
一つだけ付け加えると、60年安保の時の朝日の社説と比べてみたが、大きく違っていたのが、デモに対する態度。今回の社説その他では、国会周辺のデモをむしろ礼賛し、煽っている。が、60年安保の時の社説はきちんとたしなめているのだ。
<行き過ぎた荒々しい大衆行動によって、政治的事態を変更しようとするような行き方は、それ自体、民主主義の行き方ではない>
<首相官邸などに乱入して、一体、なんの役に立とう。効果はむしろ逆であることを、十分に考えなければならない>
正論ではないか。今回の朝日社説を読めば、朝日の劣化が実によくわかる。(Yahoo!ニュース個人 2015.10.21)
安保法は「走らない車」
自衛隊に振りかかる運命
忘れられる「同盟国から見捨てられる恐怖」
安全保障法案について、本欄をご覧の皆様にどうしてもお考え頂きたいのは「同盟のジレンマ」、すなわち「戦争に巻き込まれる恐怖」と「同盟国から見捨てられる恐怖」についてです。前者のみが強調され、国会においての議論も集中したように思われますが、後者についてどのように考えるべきなのか。
有史以来、集団的自衛権という概念が確立する遥かに前から、同盟を結んだあらゆる国々は、このジレンマの相克に悩みながら自国の安全保障について政策を立案してきたのですし、成功例も、失敗例も枚挙に暇がありません。
日本において前者のみが強調され、後者についてほとんど議論がなされないことがいかに異様で、いかに恐ろしいものなのか。後者が現実となった時に慌てふためいても、装備の造成にも、部隊の錬成にも、恐ろしく長大な時間と膨大な労力とがかかるのであり、これらを為さないままに辿るであろう国家国民の運命に思いを馳せたことがあるのだろうか。それが国民に対して責任ある国家の為すことなのか。私は決してそうは思いません。長くこの仕事に関わってきた者として、痛切な反省とともにそう思います。
今から13年前、初めて防衛庁長官を拝命した時、「日本にはなぜ海兵隊が無いのか」と尋ねたことがありましたが、当時防衛庁・自衛隊の幹部から明確な答えはありませんでした。
「アメリカ海兵隊があるから」というのがその答えであり、彼らもそのことは十分に承知していたはずですが、「軍事的には日本にも領土防衛と海外の自国民保護とを主任務とする海兵隊的な組織が必要であると考えるが、その是非の判断は政治が責任を持って行うべきである」という議論がなされない言論空間に強い違和感を覚えたものでした。
太平洋戦争中の硫黄島のイメージが強烈なせいかもしれませんが、海兵隊はよく言われる「殴り込み部隊」というよりは、国家主権である領土の防衛と海外における自国民の保護とを主任務とするものであり、それを他国に委ねる独立主権国家とは一体何なのか。この議論を提起してこなかったのも、専ら政治の責任です。
立憲主義との関係についても、何故それに反すると主張されるのか、法理論的に明確な説明をされた方をあまり知りません(あまり「法理論的に」などという言い方はしたくないのですが、議論の性格上ご容赦ください)。
そもそも創憲議会における吉田総理の答弁にあるように、「個別的自衛権を認めること自体有害である」という立場を当時の政府は採っていたはずでした。保安隊の創設の際にそれまでの解釈を改めて個別的自衛権の行使を認め、それが時間を経るにつれて政府の解釈として定着し、国民もそれを当然のこととして認識するようになったのです。国会の議論で「集団的自衛権の容認は立憲主義に反する」と唱えられた方はこれをどのように考えるのか。
そもそも量的かつ相対的な「必要最小限」という概念を「憲法判断」としたこと自体に無理があったのではないか、との考えも成り立ちえます。
また、刑法において「正当防衛」の中に「他人のためにする防衛」も違法性阻却事由として位置づけられているのは、自然権と共に法秩序の保護が正当化事由とされていることによるものですが、国家の自衛権においてこれが否定される理由は見当たりません。
前回も記したように、安全保障法制はまだ一歩進んだに過ぎないのであり、これから先の展開こそが重要です。これを一過性のものとしてしまっては我が国の独立と平和を保つことはできません。その道は遥かで遠く、険しいものですが、地道な努力を欠いてはならないと思っております。(「石破茂オフィシャルブログ」2015.09.28)