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在日詩人キムさん(86)が回想録
韓国で数万人が虐殺される中
密航船で大阪へ逃げた
在日詩人キムさん(86)が回想録
韓国で数万人が虐殺される中
密航船で大阪へ逃げた
在日詩人・金時鐘さんが回想録
2015年04月10日 08時01分
自分を整理 「四・三事件」記す
『猪飼野(いかいの)詩集』などで知られる在日の詩人・金時鐘(キムシジョン)さん(86)=写真=が、 回想録『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)を刊行し、
韓国・済州島(チェジュド)で1948年に起きた 「四・三事件」との関わりをつづった。
「苦難の故郷を見捨てて逃げを打ったことは一生の負い目」と長く沈黙してきたが、その体験は金さんの 紛れもない“詩のありか”でもある。
四・三事件は、同年4月3日の反体制派弾圧事件。南北分断の固定化につながる南朝鮮の単独選挙を阻止しようと、民衆が武装蜂起し、軍や警察の鎮圧部隊に数万人が殺された。
19歳の金さんは、 武装隊を率いた南朝鮮労働党の一員だった。襲撃先の郵便局では、同志が目の前でカービン銃で撃たれ、自らも追われる身となった。翌年5月、日本行きの密航船に乗り込み、大阪・生野のコリアンタウンに行き着いた。
〈春は 喪の季節です。/甦(よみがえ)る花は きつと/野山に 黒いことでしよう。(略)//私は一本の つつじの花を/胸にかざるつもりで います。/砲弾の くぼみに咲いた 黒い花です。〉 55年に出した第1詩集『地平線』で焦土と化した故郷を悼んだが、自らの関与には触れていない。 「軍事政権下の韓国に強制送還されれば、事件の残党ということでまず命はなかったやろうから」。
日本に来た理由は「よんどころない事情」としたままだったが、ゆるぎない詩人の言葉で「在日」を生きる意味をとらえてきた。「そうでないと、民族意識に目覚めたことも、事件に関わったことも、 自分にとって何のよすがでもないことになる。空虚だよ。知った者が、知らない形は取れないのよ」
韓国の民主化が進んだ90年代以降、事件の検証が進むにつれ、講演や対談の場で体験を語り始めた。 2010年の詩集『失(な)くした季節』では当事者としての心情を率直に表現した。
〈ぼくの春はいつも赤く/花はその中で染まって咲く。(略)//世紀はとうに移ったというのに/ 目をつぶらねば見えてもこない鳥が/記憶を今もってついばんで生きている。(略)//木よ、自身で 揺れている音を聞き入っている木よ、/かくも春はこともなく/悔悟を散らして甦ってくるのだ。〉
改めて文章に書き残したのは、「80も半ばを過ぎて、自分の整理をしたようなもの」。苛烈な生を支えたのは、密航船の手配を整え、一人息子を逃がした両親の存在だった。「まるで鳥がひなを育て、巣立たせるような見返りのなさ。それは、愛の全くの原型なんだよ」。朝晩、遺影に向かってあいさつを欠かさないという。(大阪本社文化・生活部 中井道子)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20150331-OYT8T50042.html
2015年04月10日 08時01分
自分を整理 「四・三事件」記す
『猪飼野(いかいの)詩集』などで知られる在日の詩人・金時鐘(キムシジョン)さん(86)=写真=が、 回想録『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)を刊行し、
韓国・済州島(チェジュド)で1948年に起きた 「四・三事件」との関わりをつづった。
「苦難の故郷を見捨てて逃げを打ったことは一生の負い目」と長く沈黙してきたが、その体験は金さんの 紛れもない“詩のありか”でもある。
四・三事件は、同年4月3日の反体制派弾圧事件。南北分断の固定化につながる南朝鮮の単独選挙を阻止しようと、民衆が武装蜂起し、軍や警察の鎮圧部隊に数万人が殺された。
19歳の金さんは、 武装隊を率いた南朝鮮労働党の一員だった。襲撃先の郵便局では、同志が目の前でカービン銃で撃たれ、自らも追われる身となった。翌年5月、日本行きの密航船に乗り込み、大阪・生野のコリアンタウンに行き着いた。
〈春は 喪の季節です。/甦(よみがえ)る花は きつと/野山に 黒いことでしよう。(略)//私は一本の つつじの花を/胸にかざるつもりで います。/砲弾の くぼみに咲いた 黒い花です。〉 55年に出した第1詩集『地平線』で焦土と化した故郷を悼んだが、自らの関与には触れていない。 「軍事政権下の韓国に強制送還されれば、事件の残党ということでまず命はなかったやろうから」。
日本に来た理由は「よんどころない事情」としたままだったが、ゆるぎない詩人の言葉で「在日」を生きる意味をとらえてきた。「そうでないと、民族意識に目覚めたことも、事件に関わったことも、 自分にとって何のよすがでもないことになる。空虚だよ。知った者が、知らない形は取れないのよ」
韓国の民主化が進んだ90年代以降、事件の検証が進むにつれ、講演や対談の場で体験を語り始めた。 2010年の詩集『失(な)くした季節』では当事者としての心情を率直に表現した。
〈ぼくの春はいつも赤く/花はその中で染まって咲く。(略)//世紀はとうに移ったというのに/ 目をつぶらねば見えてもこない鳥が/記憶を今もってついばんで生きている。(略)//木よ、自身で 揺れている音を聞き入っている木よ、/かくも春はこともなく/悔悟を散らして甦ってくるのだ。〉
改めて文章に書き残したのは、「80も半ばを過ぎて、自分の整理をしたようなもの」。苛烈な生を支えたのは、密航船の手配を整え、一人息子を逃がした両親の存在だった。「まるで鳥がひなを育て、巣立たせるような見返りのなさ。それは、愛の全くの原型なんだよ」。朝晩、遺影に向かってあいさつを欠かさないという。(大阪本社文化・生活部 中井道子)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20150331-OYT8T50042.html
5: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:18:19.34 ID:Y1fZPoDi.net
そして助けてくれた日本に強制連行されたと主張
クズの中のクズ
クズの中のクズ
167: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:52:06.42 ID:OWvjFhtw.net
>>5
ほんとにね。
正直に生きてれば在日には別の未来が
あったかも知れないのに。
ほんとにね。
正直に生きてれば在日には別の未来が
あったかも知れないのに。
39: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:28:51.02 ID:/hWw6U5t.net
>>5
これ。
済州島出身の在日は南チョン政府の虐殺から逃れて日本に来たのに、
強制連行されたとか嘘ついて日本に居座り、
反日しまくりの恩を仇で返すクズ共。
これ。
済州島出身の在日は南チョン政府の虐殺から逃れて日本に来たのに、
強制連行されたとか嘘ついて日本に居座り、
反日しまくりの恩を仇で返すクズ共。
45: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:30:31.40 ID:qeiztcYt.net
これ保導連盟事件で怖くなったから日本に密入国してきたって事?
55: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:32:43.46 ID:ONHvqU20.net
>>45
×怖くなったから
○武装ゲリラの一員として当たり前に当時の政府に殺されかけたから
>武装隊を率いた南朝鮮労働党の一員だった
×怖くなったから
○武装ゲリラの一員として当たり前に当時の政府に殺されかけたから
>武装隊を率いた南朝鮮労働党の一員だった
済州島四・三事件
済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[2]。
韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[3]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[3]。また、この事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。
背景
1945年9月2日に日本が連合国に降伏すると、朝鮮半島はアメリカ軍とソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成の北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[2]。1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[2]。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に島外から送り込まれた反共を掲げる右翼青年団体、西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした[2]。
済州島民の蜂起と韓国による鎮圧
1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)韓国本土でも戦闘が行われ、その際に日本への密航者が多数生じることとなった[4]。済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている[3]。
1948年9月に金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1949年12月24日には、韓国本土で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した[5]。
1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された[6]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[7]。
歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日韓国人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティを形成し、韓国人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人[8]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[9]。
現在の韓国政府の対応
長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置している。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した[10]。
事件から逃れて日本に密航した済州島出身の在日韓国人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている[11]。
保導連盟事件
保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)とは、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件[1][2]。被害者は少なくとも20万人から120万人とする主張もある[1]。
韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた[3]。
経緯
国民保導連盟による共産主義者への弾圧
日本の敗戦時、朝鮮の抗日勢力においては民族主義者の潮流が衰退し、共産主義者が各地で主流を占めていた。李承晩率いる大韓民国政府は、ストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党(南労党)を中心とする共産勢力に対して弾圧を行い、1948年12月1日、国家保安法を制定。1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織し、翌年にかけて末端組織を全国に拡大した。
「大韓民国絶対支持」「北傀儡政権絶対反対」「共産主義排撃粉砕」「南北労党暴露粉砕」を綱領に掲げるこの組織には、転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいう。
朝鮮戦争から処刑へ
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が侵攻しソウルに迫った。6月27日、李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し[2]、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた韓国人を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。
処刑が行われた地域
慶尚南道
済州島
済州では同時期に済州島四・三事件による虐殺もなされている。
忠清北道
全羅南道
韓国南西部の全羅南道咸平郡の村では、韓国陸軍第11師団によって無実の村民たちが虐殺されたことが明らかにされている[7]。村民たちは韓国軍によって一同に集められると機関銃で一斉射撃を浴びせられ、銃撃が終わると、韓国軍将校は「生存者は助けるので立ち上がるように」と呼びかけ、これに応じて立ち上がった人々にはさらなる銃撃が加えられた[7]。
慶尚北道
1950年7月から9月にかけて、慶尚北道永川市や洛東江近辺の村々では、韓国軍と韓国警察によって、数百名の村民と保導連盟員が虐殺されたことが確認されている[6]。また、韓国政府の調査によってアメリカ合衆国の諜報機関も虐殺を感知していたことが明らかにされている[6]。
韓国政府の弁明
韓国当局は彼らが北朝鮮軍に呼応して反乱することを恐れたと弁明した。また、ソウルに侵攻した北朝鮮にとっても、保導連盟員は党を捨てて敵の体制に協力した者にほかならず、追及・粛清の対象となった。再び、アメリカ・韓国軍がソウルを奪還すると北朝鮮の協力者とされたものたちは虐殺された[8]。
日本への影響
南北朝鮮双方からの虐殺を逃れようとした人々は
【閲覧注意】衝撃!韓国で起きた大虐殺事件 悲劇 済州島四・三事件
済州島四・三事件(1948・4・3~) 韓国のタブー