http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141118/dms1411181140003-n1.htm
【反撃せよ!ニッポン】創作された「歴史」の修正を主張する時期に来た K・ギルバート氏
(前略)
いわゆる「従軍慰安婦の強制連行」は、最初は小説内の創作だった。それが反日的プロパガンダによって、いつの間にか歴史的事実として世界中に認識された。歴史の創作(捏造)がまさに完成しつつあったのだ。歴史の真実を伝える側が、逆に「歴史修正主義者」として非難されてきた。
朝日新聞の意図的とも思える「誤報」と、その後の放置、誤報の拡散に加担した日本人弁護士、「日本たたき」の結論ありきで、真実の追究は二の次だった国連人権委員会、加えて、日本的な「事なかれ主義」で、毅然たる対応を取らなかった外務省や政府の責任は重い。
慰安婦問題に限らず、日本の近現代史では後から創作された話が、世界では「正しい歴史」として認識されているケースが多々ある。代表例は日本が東南アジア諸国や中国大陸で「侵略戦争を行った」という話である。
はっきり言うが、これは戦後占領政策の一部としてGHQ(連合国軍総司令部)が世界中に広めたプロパガンダである。慰安婦問題と同様、真実とは異なる嘘が、今や「歴史的事実」として認識されている。
GHQの最高責任者だったダグラス・マッカーサー元帥自身が後に「日本の戦争は、安全保障(自衛)が動機だった」と米上院の特別委員会で証言したのは、彼の懺悔とも受け取れる。
しきりに「侵略戦争」や「歴史認識」などの言葉を用いて日本を責めたてる国は、GHQのプロパガンダの恩恵を最大限に受けた国である。
戦後、アジア諸国で唯一、驚異的なスピードで復興を果たして先進国となった「優等生」は、近所の「不良」から見れば心底妬ましい存在であり、ゆすり・タカリの格好の対象だった。
GHQの思惑通り、罪悪感を刷り込まれた優等生は、不良にせがまれて金を払い続けた。結果、不良は少し裕福になったが、妬ましい優等生に対して感謝の気持ちなど持つはずがない。現在は優等生が過去の真実を知り、「今までよくもやってくれたな!」と言い始めることを最も恐れている。
最初に嘘をついて、これを広めたのはGHQだから、嘘が暴かれることを、わが祖国・米国も喜びはしない。しかし、来年は戦後70年だ。そろそろ、日本は近現代の間違った歴史認識の修正を堂々と主張すべきである。今こそ反撃せよ、ニッポン!
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141119/dms1411191550001-n1.htm
【反撃せよ!ニッポン】戦争の真理が凝縮された「勝てば官軍」 戦後GHQが「大東亜戦争」を禁じた理由
日本語の「勝てば官軍」ということわざは見事である。短いフレーズに戦争の「真理」が凝縮されている。両者が戦争に至った経緯や社会背景、その後の経過、戦時中の出来事、勝利を得た手段などにかかわらず、最終的に勝った側が「官軍」、すなわち「正義」を語る権利を得るのだ。恐らくこれは時代や洋の東西を問わず、永遠の真理だと思う。
勝利によって「正義」を得た側は、過去の味方の不正義と、敵の正義を隠蔽する。日本の近代史で言えば戊辰戦争で倒幕軍が掲げた「錦の御旗」は薩摩藩・長州藩が作成した偽物だった。つまり明らかな不正義である。
しかし、これが討幕軍の士気を高め、徳川幕府側の動揺を誘うなど、大いに効果を発揮した。戦争終結後、明治新政府による真実の隠蔽、正当化、情報操作などが行われただろうことは想像に難くないが、今さら徳川家の子孫が文句を言ったところで後の祭りである。
さて、連載第1回でも書いたとおり、先の戦争が日本の「侵略戦争」だったという話は、GHQ(連合国軍総司令部)によるプロパガンダである。つまり「勝てた官軍」の情報操作なのだ。1951年5月3日にマッカーサー元帥自身が「日本の戦争の動機は主に安全保障(自衛)であり、やむを得ず行われた」と、米上院の軍事外交合同委員会で証言したのだから間違いない。彼以上に先の戦争に関する真実を隅々まで知る当事者が他にいるだろうか。
いや、実は「自衛か侵略か」よりも重要な、真剣に議論すべき問題が、終戦から約70年経過した現在も無視されている。
それは20世紀半ばまで、先進国による発展途上国(≒有色人種の国)の植民地化に疑問を持つ白人国家は皆無だったという恥ずべき事実である。
当時の白人国家は植民地での搾取や奴隷制度など、人種差別を前提に成り立っていた。30年代後半、アフリカ大陸のほぼ全土が植民地であり、アジアで独立を維持していたのは実質的に日本とトルコだけ。シャム(タイ)の独立は風前の灯という状態だった。
日本人は「白人は優秀で有色人種は劣っている」という当時の常識は間違いだと身を持って証明したうえで、植民地を解放して独立させ、アジア人が共存共栄できる世界を目指すという「大義」を掲げた戦争を始めた。それが「大東亜戦争」である。
戦争に負けた日本は自国の「正義」を語る権利を奪われた。だが、大東亜戦争で日本が掲げた「大義」は生き残り、後に見事達成された。その意味で日本は勝者だった。
世界中に誇るべき大義の存在を戦後生まれの日本人に知らせないために、GHQはマスコミに「大東亜戦争」という言葉の使用を禁じて「太平洋戦争」と言わせた。この事実すら知らない日本人が多いことに驚く。
これこそがプロパガンダの効果であり、「勝てば官軍」の怖さでもある。
>朝日新聞の意図的とも思える「誤報」と、その後の放置、誤報の拡散に加担した日本人弁護士、「日本たたき」の結論ありきで、真実の追究は二の次だった国連人権委員会、加えて、日本的な「事なかれ主義」で、毅然たる対応を取らなかった外務省や政府の責任は重い。
ケント・ギルバート ブログ『ケント・ギルバートの知ってるつもり』
http://ameblo.jp/workingkent/
http://ameblo.jp/workingkent/entry-11913718096.html
2014-08-22
朝日新聞へのアドバイス
朝日新聞がいわゆる「従軍慰安婦問題」について、先日、過去の間違った記事を取り消したという話を聞きました。ところが訂正の内容は十分ではないし、開き直った態度で全く反省している様子は無いし、謝罪も一切していないということで、保守系の私の友人たちは「朝日新聞を廃刊まで追い込むべきだ!」と物凄く怒っています。
もし誰かに「この件で日本が失った国益はHOWマッチ?」と聞かれたら、ホールインワン賞を13回取った私でも、答えに困ってしまいます。30年以上にわたって傷付けられた国家の信用や名誉を金額に換算するというのは相当難しい問題です。正解が計算できないから、テレビではこの問題は使えません。
ところで私も「従軍慰安婦問題はあったのだ!」と先日まで信じ込んでいましたから、朝日新聞に完全に騙された人間の一人です。だから朝日新聞は私にも謝罪して欲しいです。保守系の友人たちは「従軍慰安婦問題なんて無かったんですよ!」と何度か私に教えてくれました。しかし私は全く聞く耳を持たなかったので、彼らは密かに私を馬鹿にしていたかも知れませんし、彼らの信用を失ったかも知れません。そのことを考えると精神的苦痛を感じるから、朝日新聞に対しては損害賠償を請求したいくらいです。
というのは冗談ですが、朝日新聞にまんまと騙された被害者が他にもいることを忘れてはいけません。韓国人です。彼らは「日本軍は韓国人女性を強制連行して従軍慰安婦(性奴隷)にした」という、朝日新聞が書いた記事を真実だと信じたからこそ、日本政府にしつこく謝罪と賠償を要求してきました。さらに、韓国の日本大使館の目の前や、アメリカ国内の複数の場所に「従軍慰安婦像」なる銅像を設置する活動も、真剣に継続して来ました。
それなのに「あの記事、根拠が無かったから取り消します」の一言で済まされちゃったら、必死の努力を続けてきた韓国人(と一部の日本人弁護士)は、ただの赤っ恥じゃないですか! 国連人権委員会にまで訴えて主張を認めてもらったのは、朝日新聞が従軍慰安婦問題を「真実として報道した」という事実が最大の根拠だったんですよ?
(以下略)
■動画
ケント・ギルバートの「朝日新聞へのアドバイス」が見事すぎる!
http://www.yourepeat.com/watch/?v=vqUf7nXVs38
>慰安婦問題に限らず、日本の近現代史では後から創作された話が、世界では「正しい歴史」として認識されているケースが多々ある。代表例は日本が東南アジア諸国や中国大陸で「侵略戦争を行った」という話である。
>はっきり言うが、これは戦後占領政策の一部としてGHQ(連合国軍総司令部)が世界中に広めたプロパガンダである。慰安婦問題と同様、真実とは異なる嘘が、今や「歴史的事実」として認識されている。
そのとおりだ。
日本が支那大陸を侵略した事実は全くない。
日本は、支那大陸において、侵略した国ではなく、むしろ権利を侵害された国だった。
1900年、「義和団の乱」で、支那人たちが北京などに駐在していた外国人を大虐殺した。
北京などで自国民が大虐殺された列国は、連合軍を派遣し、ようやく支那人どもによる外国人大虐殺事件を鎮静した。
そのときに列国と清国と結んだ講和議定書が「北京議定書」だ。
――――――――
北京議定書
北京-山海関の12の要地における外国軍の駐屯
――――――――
この「北京議定書」は、英・米・仏・露・独・墺・伊・白・西・蘭・日の11カ国と締結され、外国の軍隊が支那に駐屯し、支那の警察の役割を務めることになった。
今日本では「日米安保条約」による合意の上で米軍が日本に駐留しているように、20世紀前半には「北京議定書」による合意の上で日本を含む列国が支那に駐屯していた。
支那が「北京議定書」による合意の上で支那に駐屯していた日本軍や支那在住日本人を攻撃したために、1937年に支那事変が始まった。
支那事変は、支那共産党が盧溝橋事件を起こし、支那軍が停戦協定を何度も繰り返し破って継続・拡大した戦争。
盧溝橋事件の約3週間後には、支那保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した(通州事件)。
更に2週間後、支那軍は数十万人という大軍で上海の国際租界の日本人居留区を包囲攻撃した。
支那軍機は上海市街地のホテルやデパートを爆撃して民間人や外国人を大量に殺害した。
その後も支那は、日本が提出した和平案をことごとく蹴り、戦争を継続し、支那人民を虐め抜いた。
支那軍による徴発・徴用・徴兵は過酷を極めた。
支那軍は、上海市街地爆撃の他、焦土作戦、黄河・揚子江の堤防破壊(決壊)などによって多くの民衆を殺害し、世界で初めて違法毒ガスを使用したり細菌戦を行なったりするなどの暴虐・悪逆の限りを尽くした。
支那が戦争を始めて、日本が何度も何度も「やめよう。やめよう。」と言ったのに、支那がそれを無視して戦争を継続・拡大して暴虐の限りを尽くした戦争なのだから、日本にとっては自衛戦争以外の何ものでもない。
支那大陸において、権利を侵害されたり攻撃されて殺傷されたりしたのは、日本の軍隊だけではない。
支那大陸に在住したりビジネスで滞在したりしていた多数の日本人民間人も、権利を侵害され、攻撃され、殺傷された。
次に挙げる事例は、1937年7月から始まった支那事変の直前の2年間(1935年5月~1937年6月)だけに期間を限って抽出した支那で日本人民間人や日本と関係深い支那人が被害に遭った事例だ。
――――――――――
○北支
1、1935年5月、日本贔屓の傾向のある2人の中国人新聞編集者が天津で殺害された。
2、1935年8月、満州国国境から天津に向け走行中の満州国・中国国際列車が匪賊に襲撃された。調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に扇動されていた。約20名の乗客が殺害された。
3、1935年12月17日、天津の日本軍守備隊総司令官多田陸軍中将の邸宅に爆弾が投げ込まれ、中国人召使が負傷。
4、1936年1月2日、天津付近のタークーで2軒の日本人商店が中国正規兵により略奪された。
5、1936年6月19日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。
6、1936年6月26日、北京付近で中国正規兵が、豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士を襲撃し重傷を負わせた。それに対する謝罪を要求して中国軍兵営に赴いた日本陸軍大尉が中国兵に刀と銃剣で斬りつけられた。
7、1936年7月22日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、天津の日本総領事館に勤務する2名の警官を領事館前で銃撃。1人死亡、1人重傷。
8、1936年8月23日、河北公共治安部隊の数名の兵士が、天津の日本語学校を襲撃し略奪。日本人教師に暴行を加え拉致。
9、1936年10月、反日組織に扇動されたストライキが発生。山東省青島の日本人経営の紡績工場が2週間閉鎖。
10、1937年5月23日、満州国大連沖で操業中の日本漁船2隻が、中国の税関パトロール船に発砲された。中国人税関警備兵がこの日本漁船に乗船し捜索したが、犯罪に関するものは何も発見されなかった。
11、1937年6月1日、中国人暴徒が天津付近の日本人経営の農場敷設を襲撃。1つの倉庫と3つの住居に放火し、多数の日本人従業員が負傷。
○中支
1、1935年11月9日、日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。(本件に関しては第8章で詳細に述べる)
2、1935年12月20日、漢口で大規模な反日デモ。
3、1935年12月21日、約1千名の中国人学生が「日本帝国主義を倒せ!」「全ての日本人を上海から追い出せ!」と叫びつつ反日ビラを配布し、上海国際租界の中心部を行進。
4、1935年12月26日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に爆弾が投げ込まれた。
5、1936年1月7日、3千人の学生が南京の孫文墓地に集まり、反日デモを行った。同時に、南京の日本総領事館前でもデモが行われた。
6、1936年7月10日、東京三井物産上海支店の日本人社員が国際疎開で射殺された。
7、1936年7月18日、中国人暴漢が日本人を殴打し、重傷を負わせた。日本人の女や子供に投石する事件や上海の中国人が日本人に対して行う暴力行為は、日を追うにつれ増加。短期間にそのような事件が20件以上も報告されている。
8、1936年8月7日、南京の日本総領事館の松村秘書官が上海に到着した際、彼の外交上の地位を承知の上で、中国人税関職員は彼の携行していたかカバンの中を調べた。
9、1936年8月24日、四川省成都で大阪毎日及び東京日日の特派員ともう1人の日本人新聞特派員が1万人の中国人暴徒(その大部分は少年少女)に襲われ、最も残忍なやり方で殺され、他の2人の日本人が重傷を負った。中国当局は暴動を抑えるための手段を何ら講じなかった。南京の中央政府も同様に無関心だった。四川省当局は必死で証拠隠滅を図り、日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害。日本の度重なる抗議の後8月26日、国民政府は行政部門の特別会議を招集し、日本国籍をもつ者に適切な保護を与えるよう各地方長官に命令を出した。
10、1936年9月19日、漢口の日本領事館の警官が中国人に射殺された。
11、1936年9月23日、日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。他の2人の水兵は重傷を負った。
12、1936年9月26日、湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に中国人暴徒が放火。
13、1936年9月29日、長沙の日本総領事館に爆弾が投げ込まれた。
14、1936年10月、上海の中国警察による日本人の女や子供の逮捕・拘留が気紛れの不法状態で行われる事件が増加。
15、1936年11月11日、日本の汽船会社の日本人船乗りが上海で射殺された。
16、1937年2月13日、漢口で日本人実業家の妻が中国人に襲われた。
○南支
1、1936年1月6日、汕頭で2千人の中国人中学生が、対日戦を要求するデモ行進を行った。
2、1936年1月21日、汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が、出勤途中中国人に射殺された。
3、1936年1月、中国警察と税関警備兵が広東の36ヶ所の中国人事務所を襲い、日本商品を没収。
4、1936年7月3日、広東の中国人商店は反日組織により、日本商品ボイコット相互組合に加入することを余儀なくされた。
5、1936年9月3日、広東省パクホイで日本人薬局経営者が、19路軍の中国人兵士に惨殺された。暴徒が薬局を急襲した時、家族は夕食中であった。経営者(中野)は街路に引きずり出され、殴るけるの暴行の上殺害された。その間、彼の中国人妻は筆舌に尽くしがたい虐待を受けた。店は完全に略奪された。広東の日本領事館職員が事件の調査のため汽船でパクホイに赴いたが、19路軍が力ずくで上陸を妨げたため広東に戻らざるを得なかった。そこで20日間足止めを食い、ようやくパクホイに入ることができた。
6、1936年9月6日、汕頭で反日デモが発生。にほんじん経営の商店で働く中国人が退職を余儀なくされた。
7、1937年3月、広西省当局は反日感情を煽り立てる目的のためだけに、全日本人を広西省から追放した。
8、1937年5月22日、汕頭の日本領事館に勤務する警官が中国警察の集団暴行を受けた。
P121-128
『シナ大陸の真相』K・カール・カワカミ著
――――――――――
>GHQの最高責任者だったダグラス・マッカーサー元帥自身が後に「日本の戦争は、安全保障(自衛)が動機だった」と米上院の特別委員会で証言したのは、彼の懺悔とも受け取れる。
連合軍最高司令官として無法な対日占領作戦を敢行したマッカーサーは、1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交委員会において次の証言を行った。
――――――――――
「日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島の中にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時より、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。
これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。
したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」
――――――――――
>戦争に負けた日本は自国の「正義」を語る権利を奪われた。だが、大東亜戦争で日本が掲げた「大義」は生き残り、後に見事達成された。その意味で日本は勝者だった。
大東亜戦争で日本が掲げた「大義」が生き残り、後に見事達成された最大の要因は、日本が大東亜各地において、軍隊を創設し、教育し、訓練を与えたことだった。
―――――――――
ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)
日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。
ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)
大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。
アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
・・・日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。
―――――――――
>世界中に誇るべき大義の存在を戦後生まれの日本人に知らせないために、GHQはマスコミに「大東亜戦争」という言葉の使用を禁じて「太平洋戦争」と言わせた。この事実すら知らない日本人が多いことに驚く。
テレビなどを見ていれば良く分かるが、今でもテレビでは大東亜戦争のことを絶対に「大東亜戦争」とは言わずに、必ず「太平洋戦争」と呼んでいる。
「太平洋戦争」という言葉は、戦後に占領軍が日本人を洗脳するために創り出して日本人に押し付けた洗脳用語だった。
戦後、占領軍は、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画(洗脳工作)「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(War Guilt Information Program、略称WGIP)を行った。
GHQは、この「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」に基づき【南京大虐殺】などを捏造し、東京裁判や、NHKのラジオ番組『真相はかうだ』や『真相箱』などで宣伝した。
GHQによる当該洗脳工作から60年以上経った今でもNHKや政治家どもは、GHQが洗脳工作で使用した用語(例:「太平洋戦争」)や内容(例:「中国大陸で侵略戦争」)を引き継いでいる。
本当に情けない被洗脳者たちだ。
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