<「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉>
1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。
開国少将というベンネームの作者は、
「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。
逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。」
彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。
1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、
1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、
日本軍の猛烈な攻撃を、
首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。
部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。
その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。
大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。
このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。
誰かが、日本軍が来たぞと叫び、
国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に
列車から降りろと怒鳴った。
誰も従わないので、
指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。
指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、
民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ
と言って、一斉射撃を命じた。
あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。
ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。
長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。
外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。
全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。
外祖父は貧農の出身だが、
国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。
外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。
また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。
しかし、逃亡する道を選んだ。
そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。
私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。
<南京大虐殺の捏造はこの様に始まった>
昭和46年8月~12月まで、
本多勝一記者が「中国の旅」の中で、「南京大虐殺」と言う偽の事実を交え連載を始める。
①、朝日新聞は日本はとんでも無い事をしたと日本に広め、
その重圧の中、日中友好を結ぶ事になた。
しかし、この時点では、中国は南京大虐殺を問題視して無かった。
②、その後、1978年から朝日新聞の記事による圧力の中、
日本中学の教科書で、南京大虐殺を教科書に載せることになった。
(この時点では、中国の教科書には、南京大虐殺の記述は一切無かった)
③、中国の教科書に載せられる様になったのは、
朝日新聞記事「中国の旅」の中での「南京大虐殺」が連載されてからの
1979年からなのである。
④、愛国主義教育実施要綱(1994年)が、施行され
南京大虐殺記念館等が中国各地に出来る。
⑤、反日暴動起きる (2005年)
発端は朝日の本多記者と言う事らしい。クリック拡大 ↓
<従軍慰安婦の捏造はこの様に始まった>
従軍慰安婦と言う言葉は朝日新聞の
植村隆記者の造語。
彼は「従軍慰安婦強制連行」を嘘の事実を交え面白おかしく平成3年8月連載する。
それまでは、韓国や韓国メディアも従軍慰安婦問題は知らなかった。
宮沢喜一首相が事実を確認しないまま謝ってしまう。(平成3年12月)
河野洋平が、これで手打ちが出来るんではと、根拠資料の無いまま、確認もせず、
強制性を認める発表をしてしまう。
(平成4年1月)
しかし、その事実を裏付ける事実は全く無かった事がわかった。(以下その説明)
①、政府・軍指示文書があるはずだ。→→→→→日本国内、韓国内でも全く無し。
②、加害者の証言→→→→→たった一人の加害者である吉田清治
(偽名、共産党員)の証言は、嘘であった事を本人も認める。
その他、誰も加害者はいない。
よって無し。
③、目撃者証言→→→→→→裏づけのあるものは全く無し。
④、日韓基本条約締結
(昭和40年)
全ての諸問題をテーブルにのせ、話し合った。→→→→→慰安婦の問題は全く無し。
従軍慰安婦問題の発端は植村隆記者らしい。クリック拡大 ↓
【速報】朝日新聞記者、ついに【 南京大虐殺 】も【 捏造 】と認める!緊急拡散希望《本多勝一氏が『週刊新潮』に「南京大虐殺」派が使っていた象徴的写真を捏造写真と認めました》
【中国崩壊】南京大虐殺捏造の実態が中国でも報道された中国人発狂!