南京では
婦女子に手をかけてはいけないと
厳命されていた
厳命されていた
憲兵がいたし
略奪や強姦はありえない
略奪や強姦はありえない
産経はとことん朝日と戦う腹を決めたらしい。
ソース(産経ニュース) http://www.sankei.com/life/news/150217/lif1502170003-n1.html
写真=「戦争中も軍規は守られていた」と話す橋本光治さん=東京都江戸川区(池田祥子撮影)
昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判の判決は、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。
日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。まるで野蛮人の一団のように放たれ、何の規律もなく、多くの兵は酔っていた。
何ら口実もないのに中国人男女や子供を殺害し、死体は大通りに散乱、幼い少女や老女も含めて強姦(ごうかん)事件を起こし、射殺 しては多くの住宅から略奪品を運び去った…。
これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。
だが、元将兵の証言によると攻略後の城内は 虐殺とはほど遠い平穏さがあった。
加えて、軍には厳しい規律があったとの証言もある。
「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」
元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。
昭和62年から平成元年にかけて、橋本の部下だった元上等兵らが出版した3冊の本の中で、橋本は「中国人を郵便袋の中に入れ、 ガソリンをかけて火をつけ、手榴(しゅりゅう)弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と描写された。
橋本は名誉毀損(きそん)で元上等兵らを訴え、
「客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」として、
1審から最高裁までいずれも 橋本勝訴の判決が下った。
そもそも、当時の郵便袋の大きさでは、成人男性を到底入れることはできなかった。
「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」
橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。
翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江 (揚子江)河畔の下関という場所で、
捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」
■ ■ ■
橋本は日本の司法制度のもと、名誉を回復することができた。しかし、東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、 弁護側の反論は一切聞き入れられなかった。
判決では「攻略後最初の2、3日で1万2千人の殺害」という検察側の証言だけを採用した理由には触れられず、「1カ月間で2万の強姦」 も数字の明確な根拠が示されなかった。
こうした「不法行為」の多くが行われたという城内の「安全区」で、将兵はどう振る舞ったのか。
軍は細心の注意を払っていたという証言がある。
「安全区の掃討には厳重な命令がありました」
南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた
「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」で、
元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)=はそう話した。
安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多は これに参加。安全区の警備も担当した。
住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。
掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、
他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。
喜多は略奪 や強姦は「ありえないことです」と語った。
南京攻略戦に参加した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)も軍紀で思い出すことは多い。
城は日米開戦後の昭和17年末に南方作戦に参加するまでの5年間の大半を中国戦線で過ごした。その間、城らは中国人の集落に 駐留することもあった。
日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、
住民側に一歩も入ってはならないと厳命された。
「憲兵がおりますけん、違反はできんし、
われわれも絶対にせんかった。
軍紀はそれほど厳しかったとです」
東京裁判で弁護側は南京攻略戦はほかの戦場と変わりなかったと反論している。城も中国戦線で軍の規律が一様に保たれていたと 強調した。
ではなぜ、南京での「残虐性」がここまで突出するのか。
城は「おかしかことですたい」と言って、ため息をついた。
(敬称略)
やっぱ日本は、もっと反省と謝罪賠償が必要だと思う
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南京大虐殺の真相
ichiromatsuo
”捕虜”とは、交際法の陸戦放棄に基づいて降伏勧告を行い、敵対する側が”捕虜”として認め、収容所の収容されてから初めて国際法に基づいて”捕虜”の権利を得るわけです。”敗残兵”は1度も国際法規に基づいて降伏はしていません、それを処刑することはなんら国際法に違反しておらず、正当な戦闘行為の延長です。下関で安全区に逃げ込んだ敗残兵や、当時の中国兵はゲリラ行為を常道としており、とらえて処刑する行為は正当な行為です。国際法や戦闘法規をロクに知らない兵士の発言を都合よく解釈した番組に他ならない。NHKも悪質なねつ造をするんです。
返信
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菊李萬
中国人は、虐殺の人数に文句を言えば「一人でも虐殺されたなら虐殺だ!」といい、広島原爆の犠牲者12万に対しては1000人だと反論します。
討論する際は論点のずれに注意して論破するよう心掛けてください。
討論する際は論点のずれに注意して論破するよう心掛けてください。
【貴重写真】『南京大虐殺』は捏造だった!…南京の本当の写真
「南京大虐殺」は捏造だった中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。
これは日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、歓声をもって迎える南京市民ら。市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配ったものである
(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)
南京市民に食糧等を配る日本兵たち。(イギリス系新聞
「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)
南京市民と楽しく会話する日本兵ら
(1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)
日本軍による南京占領5日目の朝日新聞
(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手製の日の丸の腕章をして笑っている。
(朝日新聞 1937.12.18付)
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm
南京占領8日目の朝日新聞。タイトルは、「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵
(真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら
(右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら
(朝日新聞1937.12.21付)
南京の病院の中国負傷兵と看護する日本兵
(ノースチャイナ・デイリー・ニュース 1937.12.18付 南京占領の5日後)
中国負傷兵を看護する日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)
「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。
日本兵や日本人を恐れていなかった」
(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後 1937.12.15撮影 南京安全区にて)
日の丸の腕章をつけ、通りで野菜を販売する南京市民(1937.12.15 南京占領の2日後)
疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)
日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族
(1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)
これまで本名で南京大虐殺を証言をした者は、ことごとく嘘であったことが確認されている
□ 東史郎
一番有名な捏造者。 原本が存在しない創作をバラまいた。 中国は未だに真実扱い。
□ 中山重夫
戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが、場所と時間がコロコロ変わったので嘘がばれた。
□ 富永博道
当時は学生だったのに、自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。 経歴照会で嘘判明。
□ 舟橋照吉
東の懺悔屋成功に便乗し日記を捏造。 仮想戦記な内容であっさり×。
□ 曾根一夫
野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵下士官だと経歴と日記を捏造。 経歴照会で嘘判明。
□ 田所耕三
強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。
後に捏造を告白。
□ 太田壽男
死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記 ( 捏造物の数々と違い、原本が確認できる )
により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった。
□ 富沢孝夫
海軍の暗号兵で、「 松井軍司令官の虐殺をいましめる暗号を傍受・解読した 」 と証言。
だが海軍の彼が陸軍の暗号を解読するのは不可能で、しかも証言日時に松井司令官は
蘇州で入院。
□ 上羽武一郎
「 上官命令で強姦虐殺放火 」 と証言。
が彼は後方担架運びの衛生兵で、命令が出たとの史料もない。
このように、偽証言 ・ 偽手記 ・ 改竄記録が多く出回っている。
以下は、検証を受けるまでは堂々と真実として喧伝されていた、偽記録等の特徴。
■ 原本が確認できない。 実物を絶対見せない。
■ なぜか南京戦前後だけ詳細に記録。
しかも矛盾点や他の一次史料との乖離が異常に多い。
■ 記録者証言者本人の経歴が実際と違う。
■ 「 日本や日本軍は懺悔しろ! 」 と糾弾するが、
自身は償いに私財を投じることはなく、出版や講演で儲けている。
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【動画】南京日本兵の証言
http://uni.2ch.net/newsplus/kako/1386/13860/1386060544.html
www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm