【上海事変の真実】8/13、12万人の中国軍が4千人の日本海軍陸戦隊をおそい、日本人居住区を包囲した。待っていたのは7万のトーチカと重機関銃陣地で名古屋師団は10日で壊滅した
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「歴史教科書検定の真相! 歴史を捏造して反日・自虐史観の教科書をつくらせた文部科学省の大罪」という拙論です。
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「歴史教科書検定の真相! 歴史を捏造して反日・自虐史観の教科書をつくらせた文部科学省の大罪」
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まず後半部分より
このように、
検定官は日本による朝鮮の「合邦」を、欧米列強による東南アジアでの「植民統治」と同一視させて、
日韓併合の素晴らしい側面を一切否定させようとしたのである。 満州事変では、張作霖の爆殺を関東軍によるものと明記させ、
リットン調査団に「日本の行動を中国側の破壊活動に対する自衛行為と認める者もいた」という記述を削除させた。
こうした史実の捏造が最も甚だしいのが、
支那事変勃発の経緯である。
史実では、支那事変は、
「盧溝橋事件」の現地解決から一ヵ月後に起きた「上海事変」に始まったのであるが、
検定官は
あくまでも支那事変の発端を「盧溝橋事件」であるとして、
申請本から「上海事変」という名称と事変当初の日支両軍の兵力差を削除させた。
一方、申請本の記述は、
「1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおき、翌日には、中国軍と戦闘状態になった(盧溝橋事件)。
事件そのものは小規模で、現地解決がはかられた。(改行)
しかし、1か月後には、上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり、
日中戦争(当時は「支那事変」)の発端となった。
当時、上海には、英米など各国の租界がもうけられ、居留民保護のため、各国とも数千人の兵力が常駐していた。
日本は、海軍陸戦隊が駐留していた。(改行)
8月13日、
12万人の中国軍が4000人の日本海軍陸戦隊をおそい、日本人の民間人居住区を軍事的包囲した。
(上海事変)
日本は3万人の在留日本人保護のため、陸軍を逐次派遣したが、戦意旺盛で近代化された蒋介石の軍隊に苦戦し、3か月後に平定するまでに、4万の死傷者を出した。」というように、史実に根ざした数値的な根拠を明示したものであった。
しかし検定官はこれを
「いっぽう、日本軍は満州国の維持や資源確保のために、隣接する華北地方に親日政権をつくるなどして、中国側との緊張が高まった。
また、日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、
北京周辺に5000人の軍隊を駐屯させていた。(改行)
1937(昭和12)年7月7日夜,北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおき、翌日には、中国軍と戦闘状態になった(盧溝橋事件)。
事件そのものは小規模で、現地解決がはかられたが、日本は派兵を決定し、中国側も動員令を発した。
その後も戦闘は絶えず、
翌月には、外国の権益が集中し各国の租界がある上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり、中国軍が日本人居住区を包囲した。日本は日本人保護のため派兵した。こうして日中戦争(日本は当時「支那事変」とよんだ)が始まり、拡大した。」に書き換えさせ、
あくまで「盧溝橋事件」の現地解決を望んだ日本を、反対にこの「小規模な」事件をきっかけに支那への派兵を決定するような?侵略国?へと仕立て上げたのである。
実際には当時、日支間の戦争拡大を望んでいたのはソ連のスターリンであり、そしてコミンテルンの指針で動いていたのが支那であったが、文科省の検定官はこうした史実の一切を隠蔽して、日本を悪逆非道の国にする教科書づくりに努めたのである。
これが、「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」という学習指導要領を具現するための最初の教科書検定の偽らざる「真相」である。
このような、反日・自虐的な歴史観に染まりきった文部科学省の是正こそが、
正しい教科書検定制度、さらには教育改革の第一歩ではないだろうか。
上海事変の残虐写真は色々あるが軍服が日本軍か?その他か?支那軍か?に注意せよ。虐殺をやっているのは日本軍の軍服ではない!文部科学省に暗躍する「反日国家公務員」の跳梁跋扈を再び許してはならない!
正しい歴史教育を取り戻し、子供たちに祖国日本への誇りと自信を取り戻すためにも、
今年の教科書検定は、国民が厳しい目でこれを監視しなければならないだろう。
平成二十五年四月十日の衆院予算委員会で、下村文部科学相は現在の教科書検定制度について見直しを検討すると表明し、安倍首相も同様の認識を示した。そして、同年十一月十五日の記者会見で、下村文部科学相は小中高校の教科書検定基準と教科書採択を見直し、「愛国心を育む」などとした教育基本法の趣旨を徹底するための「教科書改革実行プラン」を発表した。今後、文部科学省はこのプランに沿って、必要な制度改正を行っていくことになる。
平成十八年、第一次安倍内閣の下で教育基本法が改正され、国と郷土を愛することを教育目標とし、これを受けて学習指導要領も「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」とされた。
しかし、民主党政権下の平成二十三年に行われた教科書検定において文科省はこれらを全く無視し、『日本国民としての意識だけでなく、地球に生きる人間(地球市民)としての意識を持つことが求められて(東京書籍)』いることを強調し、反日・自虐史観に貫かれた歴史教科書をそのまま合格させた。
その一方で、教育基本法や学習指導要領を遵守し、歴史の主体を明確に「国家・国民」とし、全編を通じて歴史を「国史」として捉えて記述された自由社や育鵬社の歴史教科書には大幅な書き換えを命じた。
こうした文科省による歴史教科書の反日・自虐化という「事実」を直視し、再びこのような国家と国民に対する裏切りを許さないため、本稿では、当時の文科省の検定官から最も目の敵にされた自由社版の歴史教科書について、申請本における記述が検定によりどのように修正・削除されたかの一例を紹介する。
まず、中世から近世についてであるが、文科省の検定官は自由社が提出した申請本に対し、
元軍司令官を震え上がらせた鎌倉武士の勇猛果敢な戦いぶりや、
秀吉にバテレン追放令を余儀なくさせたキリスト教宣教師の煽動による神社や寺の破壊活動、
さらに秀吉による朝鮮出兵の背景となったスペインの中国大陸征服計画などの史実を削除させた。
自由社の申請本では、
元軍の日本占領を阻止した武士たちの戦いぶりを「1274(文永11)年10月、元・高麗連合軍が3万余りの軍勢で、対馬と壱岐に押し寄せたとき、およそ200人の武士は、敵に後ろをみせず戦い、全員討死にしました。(改行)
元軍の大将、忻都(キント)は、その戦いぶりをみて、
『日本の兵士は、大軍を前に死ぬことが分かっていても、戦いを挑んでくる。私はいろいろな国と戦ってきたが、こんなすごい敵に出会ったことはない』と驚きました。」と記述していた。
しかし、検定官は
「(改行)」以降の敵将による日本の武士に対する絶賛に近い評価を「全て削除」させた。
また秀吉がバテレン追放令をだした原因について、申請本では、
「日本は聖徳太子以来、仏教も日本の神々もともにおがむことが認められる、宗教的に寛容な国柄でした。そこに初めて、他の宗教との共存を許さない、
(傍点は筆者、以下同じ)キリスト教という一神教の思想が入ってきたのです。(改行)
秀吉の追放令にあるように、改宗させた信者に神社や寺を破壊させ、仏像・仏具・経典を焼き、僧侶を侮辱するなどの行き過ぎた行為がすでにありました。
右近(筆者注、秀吉配下のキリシタン大名・高山右近)らの考えを認めてしまうと、日本はいずれはキリスト教だけの国になってしまうでしょう。それは実質上、日本がヨーロッパの国に支配されることにもなります。」と記述していたが、
検定官はこの文章前半の傍点部分を削除させるとともに、「(改行)」
以降を「日本の文化に無理解なキリスト教の宣教師の活動を認めることは、古い信仰と新しい外来宗教が融合しながら共存させてきた日本の宗教的伝統に大きな衝撃を与えることになります。
キリスト教に改宗した信者が、神社や寺を破壊し、仏像・仏具・経典を焼き、僧侶を侮辱するなどの行きすぎた行為もすでに起こっていました。」とさせ、
神社仏閣の破壊活動へのキリスト教宣教師の関与を抹消させた。
しかし、実際には近世の日本を襲った最大の脅威は、ヨーロッパ人の世界進出であり、その尖兵となったのが、当時のキリスト教宣教師だったのである。
次に近代史について、紹介しよう。
自由社の歴史教科書に対する検定意見の七割以上は近代史、とりわけ韓国併合、満州事変及び支那事変(日中戦争)に集中しており、その中で検定官は「近隣諸国条項」に則り、日本を?侵略国?とする歴史観への書き換えを強要した。
申請本では、
「日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて近代化を進めていった。
1910(明治43)年、日本は武力を背景に韓国内の反対をおさえて、併合を断行した(韓国併合)。
欧米列強は、イギリスのインド、フランスのインドシナ、アメリカのフィリピンなど、自国の植民地支配を日本が承認するのと引きかえに、日本の韓国併合を承認した。」としていたが、
検定官はこれを
「日露戦争後、日本は韓国統監府を置いて保護国とし、近代化を進めていった。欧米列強は、ロシアの北満州・蒙古、イギリスのインド、フランスのインドシナ、アメリカのフィリピンなど、自国の植民地支配を日本が承認するのと引きかえに、日本による韓国の保護国化を承認した。1910(明治43)年、日本は武力を背景に韓国内の反対をおさえて、併合を断行した(韓国併合)。」として
「併合」と「承認」の順序を逆転させ、欧米諸国が「併合」を承認していないとも読めるようにさせた。
また申請本では、
「併合後におかれた朝鮮総督府は朝鮮で鉄道・灌漑の施設をつくるなどの開発を行い、土地調査を実施した。また、学校も開設し、日本語教育とともに、ハングル文字を導入した教育を行った。」としていたが、
検定官はこの文章の前に
「植民地政策の一環として、」という不要な文言を、
後には「これらの近代化によって、
それまでの耕作地から追われた農民もすくなくなく、また、その他にも朝鮮の伝統を無視したさまざまな同化政策を進めたので、朝鮮の人々は日本への反感をさらに深めた。」
という
史実とは全く逆のでたらめな文章を加えさせた。
(日本兵法研究会会長 家村和幸)
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>『日本国民としての意識だけでなく、地球に生きる人間(地球市民)としての意識を持つことが求められて(東京書籍)』
「なんで日本だけを愛さなきゃいけないの。今はグローバルな時代だって。
日経新聞だって、いつもそう書いてるじゃない。
そうした時代の中で、じゃあなぜ日本だけを大切にするの。 大相撲で、朝青龍や把瑠都(バルト)は土俵に上がるな、ということ?」(後略)ソース 日経ビジネスオンラインhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100420/214084/?P=
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(読者の声1)
前号の家村様のご意見に感想です。私は支那事変の研究をしており、研究成果を以下掲示しています。
イ、ユーチューブ歴史思想講座(索引語 tkyokinken)、 ロ、アマゾン電子本に「支那事変の真実」
南京大虐殺や慰安婦を使った中共の歴史攻撃に対する最も有効な反撃は、支那事変の因果関係を明らかにすることなのです。それはこれにより日本が被害者である事が分かるからです。
文科省は、独立したのに、未だに、占領軍政の「日本悪者論」の歴史観を踏襲しており独立性が見えません。これは問題です。
私の支那事変の歴史観を一部記します。
支那事変は、「スターリンの独ソ戦に備えた東西挟撃防止の東部国境工作」と見るのがわかりやすい。
米国はこれに便乗しましたが、結局スターリンに騙され「捕らぬ狸の皮算用」に終わりました。
蒋介石はスターリンの傀儡に過ぎませんでした。蒋介石は米国の援助も受けましたが、実際には米国のアジア政策の弱みを握り援助をむさぼりました。
1936.11:蒋介石は9年がかりの国共内戦に勝利し、支那統一の5分前という好位置につけました。
そして12月には延安に逃げ込んだソ連管理下の毛沢東共産軍を総攻撃するところでした。
しかし1936.12/13に張学良、楊虎城を使ったスターリンの隠謀で逮捕され、周恩来の脅迫で降服しました。これが西安事件です。
降伏の条件は自分とソ連に人質になっていた息子蒋経国の生命でした。
そしてソ連は蒋介石に対日戦争用に3億ドルの軍事援助を開始します。
内訳は戦闘機、爆撃機1000機、将軍、操縦士など軍事顧問談述べ4000名です。
当時蒋介石はドイツの軍事顧問談を使っていましたが、桁違いです。
こうして準備半年、北京の軍閥を使って蒋介石は対日挑発を始めました。
それが盧溝橋事件、廊坊事件、広安門事件、通州事件=日本人大虐殺、大山事件です。
そして8/13に国際協定を侵犯して、上海に侵入し蒋介石軍五万人が日本人居留区を襲ったのです。
そこで日本側は水兵など四千名が軍艦から下り必死に防戦しました。
この勇戦ぶりは外国人も賞賛しています。上海事変です。
日本本国では対応で意見が分かれました。石原完爾参謀本部作戦部長は支那からの撤退を主張しました。
満洲に迫るソ連を心配したからです。
他の人々は、一撃講和を主張しました。この戦争が終わらない戦争であることを知らなかったのです。
そして8/23に上海に救援軍が上陸しましたが、待っていたのは7万と言われるトーチカと重機関銃陣地でした。
このため名古屋第三師団は10日で壊滅しました。
それまでにソ連と蒋介石は極秘裏に大トーチカ要塞を建設していたのです。
蒋介石は本音では対日戦争を望みませんでした。
自分の軍隊が損耗し軍事力が弱まるからです。しかしスターリンは蒋介石に講和を禁止しました。
このため蒋介石は1945年まで戦争を続けました。だから日本の何度にも渡る講和提案については手の内を読むだけで講和を進めることはありませんでした。
このように、支那事変は重層的、複合的なので広い視野、高い視点を持たないと部分情報だけでは正しく理解できません。
(東海子)
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中国人民解放軍の車両は白いプレート。
これさえあれば高速道路無料、検問所フリーパス、スピード違反や車線変更、信号無視など交通違反を犯しても、軍が優先する中国では犯罪にならない。
違反取り締まりの対象外だ(観光施設や博物館も軍人は無料のところが多い)。
この白いプレートは全部で75万台あるとされる。
この魔法のような「白プレート」は、時に転売されたり、オークションにかけられたり、
民間企業の社長でも白プレートの豪華車によって、町を疾駆している。
白プレートの密売が軍の格好のアルバイトになっているようである。
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◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ◎BOOKREVIEW◆
中国の猛烈ビジネスの裏側にある欲望の深淵に迫る
実際に体験した中国人ビジネスウーマンがなまっちょろい日本企業に警告
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張益羽『中国人OLは見た!猛毒中国ビジネス』(講談社)
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著者は日本の文科省による国費留学で日本にやってきた。爾来、在日十四年、日本に帰化した。国際会議の通訳などで大活躍し、
現場の猛烈なビジネスマナー、つまり中国人のバックマージン要求、口利き料請求、アイディア盗用、賄賂。何でもありの、凄まじいほどのジコチュー(自己中心主義)で公徳心に欠ける人々が鵜の目鷹の目で騙す相手を探している。
このおぞましき実態を中国からやってきた女性が暴露するのである。
言うまでもないが、格好のカモが、馬鹿丸出しの日本人、なまっちょろい日本企業だった。
その実体験を綴っている箇所は、おおいに日本企業人が読むべき教訓を含んでいる。
それにしても著者が日本企業に勤めていると分かるや『オレは誰々を知っている。
中国はコネ社会、毎月x万円を呉れたら紹介してやるよ』と初対面で、名前をなのらず、いきなり金を要求したり、強引にキスを迫ったり、まったく動物以下ですね。
著者はこう嘆く。
『キックバックを求める中国社会をつくったのは、そこに生きている焦燥感に満ちあふれた人々なのか。それとも目先の利益を追求する社会の風潮が、焦燥感に満ちあふれた人々を生み出してしまったのか。(中略)この疾走する列車は、人々をいったい何処まで運ぶの』だろうか?と中国を「疾走する列車」に喩え、中国人の殆どが心理的に陥った集団的焦燥、それからの脱出という、中国の若い世代の名状しがたい強迫観念を表現している。
さて評者(宮崎)は、この本を通読して、じつは別の印象を持った。
著者の「サンドイッチ型人間」というのは中国と日本に挟まって、苦労する日常や、そのカルチャーショックを経験した日本留学組の中国人をさすらしいが、日本に十四年もいながら、日本の歴史に関しての興味がないこと、便宜的に日本国籍を取得しただけで日本への本当の愛着が希薄という印象なのである。
それは南京大虐殺などとありもしなかったことに洗脳されたため、底の浅い日本観を依然として抱いていることが行間から仄見えてくることだ。
反面で中国の実相、その信じられない若者の生態と世界観、人生観などを実直に語るのは著者の周囲にいる友人たちが、いずれも中国を捨ててカナダ籍をとったりイタリア人と結婚したり、つまり中国人が祖国への愛着を表向きは語りながらも、中国をすてて外国に暮らすことが、よい人生という共通の認識ぶりが臆面もなく語られている。
だから中国には愛国者が育たないのだろう。
外国留学を終えて帰国した友人達は中国の食材を懼れ、「上海の高級デパートで輸入食材を入手している」。著者が日本へ出張していた時代は、その度に、『日本の粉ミルクを買って帰ってきて』と言われた。
中国にもどっても、絶対に国産品を買わない帰国組。「本当のことが言えない」と泣き出す女性アナウンサー等々。